阪急文化財団ブログ

池田文庫の本棚放浪記【第8回】~小林一三日記~

 平成も残り数ヶ月。新時代の幕開けとなる今年から、日記を始めようと考えた方も多いのではないでしょうか。

 阪急電鉄の創業者・小林一三もまた、日記をつけた人でした。その日記を『小林一三日記』全3巻 (阪急電鉄, 1991年刊) で読むことができます。

 小林一三のほかの著書と違うところは、日記であるために他人が読むことを想定して書いていなかったろうということです。

 誰かに文章で何かを伝える時、わかりやすいように情報を取捨選択しますよね。他人に向けた文章は、「これを伝えたい」「こう読んでもらいたい」意識のもと、書き手によってダイジェストされたものです。この日記には、そこで削がれてしまうような細かなことも詰まっています。

 調べたいことに関わる情報を求めて部分的に読んでも役立つ本ですが、一日一日を丹念になぞる読み方もまた面白いと思います。

 小林一三はさまざまな顔をもつ人物です。鉄道・百貨店など人々の暮らしを支える事業から演劇・映画などの娯楽事業まで手がけたのですから、実業家としての顔だけでも多様です。加えて茶人・美術品収集家としての顔、当然家庭人としての顔ももっています。

 日記にはそのそれぞれが入れかわり現れますので、各分野の情報が混在し、複雑です。日常の細々したことや、社会を観察し思いめぐらせたことなども書きつけられています。

 けれどもそれらを読むにつれ、小林一三の思考にもぐり、その過ごした日々を追体験しているかのような心地になってきます。

 生身の小林一三に触れ、親しみを感じる人もいるかもしれません。

 小林一三を知りたいと思う人が、その人なりの小林一三像をつかむ助けになってくれる本だと思います。

 

 日記の書かれた時期については、次のとおりです。

第1巻

・当用日記 (明治31, 33, 35-37, 39年) 25歳~33歳

・日々是好日 (昭和10年9月-11年4月) 62歳~63歳

・朝鮮・中国北部を覗く (昭和12年5-6月) 64歳

・訪伊使節日記, 蘭印使節日記 (昭和15年8月-11月) 67歳

第2巻

・我国の運命 (昭和20年1月-昭和23年12月) 72歳~75歳

第3巻

・我国の運命(昭和23年12月-昭和32年1月) 75歳~84歳

 

 現在、逸翁美術館で展覧会「西洋ちょこっとアンティーク -1935年、小林一三の欧米旅行記から-」が開催されています。

 副題の「欧米旅行記」とは第1巻に収められている「日々是好日」のこと。風景描写も豊富で、紀行文としても楽しめます。

 展覧会をご覧になる前後に、ぜひ池田文庫に立ち寄って手にとってみて下さい。

 販売 (分売不可) も行っています。

 

 

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第7回】~アメリカ博覧会~

 昨年の印象的な出来事の一つに2025年の大阪万博開催決定がありました。その頃、関西がどうなっているのか、日本で3度目となる万博がどんなものになるのか、楽しみに見守っていきたいですね。

 さて、万国博覧会ほどの規模ではないにしても、博覧会と名のついたイベントはこれまで数多く開催されてきました。阪急沿線においても然り。中でも、今から70年近く前に、西宮市で開かれた博覧会に行かれた方、覚えているという方はいらっしゃるでしょうか。

昭和25(1950)年3月18日から6月11日にかけて、朝日新聞社主催でアメリカ博覧会が開催されました。会場は阪急西宮球場とその外園。現在でいう阪急西宮北口駅すぐの阪急西宮ガーデンズが建っている場所とその周辺ですね。

 

 上は、博覧会の全容を教えてくれる写真集「アメリカ博覧会」(朝日新聞社 1950年11月刊)です。色鮮やかなカバー絵は、神戸の風景をテーマにした創作活動で知られる川西英(1894-1965)によるもの。第二会場の入口をモチーフにしています。このカバーの下には、第一会場入口の表紙絵が隠れています。本の中には、風景写真、会場マップ、展示内容など、この博覧会の詳細な記録が載っています。

 

 アメリカ博とはどんな博覧会だったのでしょう。

 当時の阪急沿線案内パンフレットに載っていた見開き広告が、博覧会の展示の中で主だったものを要約していました。

 大まかに言うと、第一会場はホワイトハウス、本館、テレヴィジョン館等の展示館で、歴史から政治、経済、産業、文化、芸術まで、アメリカについて全般的に学ぶ空間。第二会場は、アメリカ名所の野外大パノラマが目玉の遊覧空間といったところでしょうか。

 前述の写真集には、第二会場の野外パノラマの写真がたくさん載っています。ニューヨークやシカゴの大都会風景からナイアガラ、ヨセミテ国立公園などの自然景勝まで、アメリカの名所中の名所の模造に挑んでいます。写真を見るかぎりは、なかなかの出来栄え。これらを巡るとアメリカ旅行気分を味わえそうです。

 

 当時の日本はまだGHQの占領下にありましたから、アメリカという国に国民の関心が集まるのも、もっともだったといえるでしょう。主催の新聞社の宣伝力も相まって、アメリカ博は大いに盛り上がったようです。当初は5月末に終わる予定でしたが、6月11日まで日延べし、入場者は86日間でおよそ200万人にのぼりました。

 

 池田文庫ではこの時の宣伝ポスターも数点所蔵しています。阪急文化アーカイブズで「アメリカ博」検索するとでてきます。インターネットで画像を公開していないものも、池田文庫にお越しいただくと、館内の端末で見ることができますよ。

 

 大阪万博が開かれるまでの暫しの間、池田文庫で70年前の博覧会を振り返ってみませんか。

 

(司書H)

『阪急文化研究年報』第7号を刊行しました

年報7号表紙

『阪急文化研究年報』第7号を刊行しました。

これは学芸員が日頃取り組んでいる調査・研究の成果を発表するものです。

収録内容は次のとおりです。

 

 

・宮井肖佳

「小林一三の目指した文化ネットワークとその意義(六)-書簡から見る五島慶太との交流-」

・仙海義之

「連載(三)「十巻抄」一〇巻(重要文化財)第五巻・第六巻」

・竹田梨紗

「連載(七)逸翁美術館蔵「芦葉会記」(昭和二十二年)」

・正木喜勝

「一九七〇年日本万国博覧会に対する阪急の取り組みとお祭り広場の催し物資料について」

・平成29年度事業報告

 

 

閲覧ご希望の方は池田文庫にお越しいただくか、お近くの公共図書館や大学図書館にお尋ねください。

 

(学芸員Y)

池田文庫の本棚放浪記【第6回】~南座~

 南座が3年弱の改修工事を経て開場しました。11月から始まった顔見世興行は「南座発祥四百年南座新開場記念」と銘うたれています。この400という数字に驚かれた方もいるかもしれません。

 南座の歴史は、いつも歌舞伎の起源とともに語られます。歌舞伎の起源は1603年、京都に現れた出雲の阿国によって演じられたものとされます。以降、四条河原でさかんに興行が行われ、元和年間(1615~1624)に四条鴨川東側に7つの櫓(やぐら)が官許されることになります。その櫓の1つが現在の南座が建っている場所にありました。これが南座のルーツです。

 芝居小屋が林立する四条通りを想像してみて下さい。さぞや賑やかで心浮きたつ風景だったことでしょう。

 しかし、大火などの理由でさらにその数を減らし、明治に入る頃には、2つ。さらに明治年間中に一方がなくなり、御存じのとおり、残ったのは南座ただ1つとなりました。こうした歴史が、南座が日本最古の劇場といわれる所以です。

 

 南座と呼ばれるようになるのは明治中頃からです。それ以前のこの南側の芝居の役者絵、芝居番付、絵看板等の歌舞伎資料も、池田文庫は数多く所蔵しています。これらは阪急文化アーカイブズに目録を収録しており、一部は画像も見られます。

 

 下は、筋書、いわゆる公演プログラム。やはり南座が改築のために長らく休場し、1929(昭和4)年11月末に新装開場したときのものです。表紙に描かれた櫓が誇らしげですね。


 

 

 筋書は、時代によって体裁や内容は変わりますが、配役、あらすじ、解説などが載っています。池田文庫ではおもに大正から平成にかけて、400件弱の南座の筋書を所蔵しています。

 100年ほどの間に発行されたこれら筋書を見渡すと、今では大名跡を継がれている役者さんの初々しい姿に出会うこともあれば、意外なお顔を見かけることも。

 上は1953(昭和28)年12月の筋書から転載したものですが、出演メンバーの中に「市川雷蔵」の名前が見えます。

 八世市川雷蔵は日本映画黄金期の映画スターとしてのイメージが強いですが、スタートは歌舞伎役者からでした。南座へも前名「市川莚蔵」時代からたびたび出演し、この公演時は22才。大映と契約し映画界へ転身するのはこの半年後です。以後、舞台への出演はめったになくなりますが、活躍の場を映画にうつしても、それまでの経験が彼の芝居の土台になっていたことは言うまでもありません。筋書に点々と残る歌舞伎俳優としての足跡に、今なお根強い人気の理由が隠れているかもしれません。

 

さて、筋書の目録は蔵書検索で検索できます。

「南座」で検索しますと逐次刊行物の検索結果の中に「南座 歌舞伎公演」「南座」がでてきます。これは親タイトルです。これをさらにクリックすると各公演の目録の一覧がでてきます。

歌舞伎公演は「南座 歌舞伎公演」、

松竹新喜劇や新派、新国劇など歌舞伎以外の公演は「南座」にぶらさがっています。

もし思い出の公演があれば、その筋書が池田文庫にあるかどうか、試しに探してみてください。

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第5回】~雑誌『暮しの手帖』~

『暮しの手帖』が創刊70周年を迎えたそうです。この機に池田文庫で所蔵している『暮しの手帖』を読んでみることにしました。

『暮しの手帖』といえば、どんなイメージが浮かびますか?

生活の工夫や知恵を指南してくれる家庭的なイメージでしょうか。

藤城清治さんの影絵物語などからくる幻想的なイメージでしょうか。

名物コーナー「商品テスト」で商品を徹底的に検査し、メーカーに檄を飛ばす硬骨の雑誌というイメージでしょうか。

 

 今回手に取ったのは1980年代のもの。自分の最も古い記憶の残っている時代、というのが理由です。

 料理やDIYなどに関する記事は今でも役に立ちそうですが、特に興味を引かれたのは商品テストや買物案内でした。今となっては古い情報ですから、買い物の役に立つわけではありませんが、暮らしの道具や機器の移りかわりをじかに知る資料としては、一見の価値ありです。

 同種の商品を、微に入り細をうがつように比較分析、批評してくれていますので、読むうちに、「そうそう、こういう風に使っていた」「使う時こんなことを思った」など、いろいろな記憶がよみがえってきます。

 たとえば、二槽式洗濯機の洗濯槽から洗濯物をひっぱり出して脱水槽に押しこむときの重み。小学校低学年ごろクラスを席巻していた、いろんな場所が開閉する複雑なしくみの筆箱のことと、それを用もないのにむやみに開け閉めして遊んでいたこと。プリントゴッコでは、製版時にピカッと漏れる光の強さや、最初の刷りあがりを見るときのドキドキ感。

 ともすると場所や周りにいた人、それにまつわる事件など芋づる式に湧いてきて、思いがけない記憶まで掘り起こされました。

 

 暮らしの道具は手をわずらわせない方へ、どんどん進化しています。しかもインターネットとモノがつながって一つの機器を触るだけであらゆるものを動かす時代にさしかかっています。

 その時、その場、指一本で。確かに便利にちがいないですが、記憶が身体の感覚をともなうことでより強く刻まれるとするなら、その刻み具合が、昔とくらべてずいぶん浅くなってしまった気もします。指タップ一つで動かしたモノを、それにまつわる風景を事件を、はたして記憶できるか…まったく自信がもてません。『暮しの手帖』の中で再会した、そこそこ手をわずらわせる道具たちが名残惜しくも感じられたのでした。

 

 さて、池田文庫では『暮しの手帖』を、1948年9月の創刊号から2012年2・3月号までをほぼそろえて所蔵しています。まれに欠号があったりもしますので、詳しい所蔵状況を知りたい方は蔵書検索をご利用ください。

 小林一三も一度、この雑誌に文章をよせています。どんなタイトルで、何年何月号に載っているかを調べられます。気になりましたら、ぜひ一度検索してみてください。

 『暮らしの手帖』ではなく『暮しの手帖』。「ら」抜きです。ご注意を。

 

 

(司書H)