阪急文化財団ブログ

『阪急文化研究年報』第8号を刊行しました

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さて『阪急文化研究年報』第8号を刊行いたしました。

掲載論文・資料紹介は下記の通りです。

 

■論文
正木喜勝「恒富、月斗、箕面電車 ―池田文庫所蔵ポスター《大阪梅田箕面電車》の史料的意義―」
■資料紹介
仙海義之「連載(四) 「十巻抄」一〇巻(重要文化財)第七巻・第八巻」
竹田梨紗「連載(八) 逸翁美術館蔵「芦葉会記」(昭和二十三年)」
宮井肖佳「小林一三の目指した文化ネットワークとその意義(七)―「瀧柳」関係資料と『曽根崎艶話』に見る堂島と小林一三―」
■事業報告

閲覧ご希望の方は池田文庫にお越しいただくか、お近くの公共図書館や大学図書館にお尋ねください。

 

(学芸員A)

池田文庫の本棚放浪記【第16回】~小林一三翁に教えられるもの~

 阪急の創業者、小林一三についての本はたくさんあります。その中でも、直接かかわった人々が語るエピソードは、後世の人が小林一三を知るうえで、大切な証言といえます。

 

 こうした証言は、特に逝去した昭和32(1957)年、新聞・雑誌に追悼文としてたくさん掲載されました。親交のあった著名人たちによる追悼文集「小林一三翁の追想」という分厚い単行本もあります。

 

 今回ご紹介する『小林一三翁に教えられるもの』(1957年刊) もそうした追悼本の一つです。注目したいのは、小林一三の仕事ぶりを長く側で見てきた人が、一冊の本になるほどの量の言葉を残してくれたということです。

 

 

 著者の清水雅は小林一三に誘われ、昭和4年に阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)に入社しました。のちには、阪急百貨店、東宝、阪急電鉄をはじめ、グループの数々の企業の要職を歴任した人物です。

 

 著者は、小林一三のアイデアのひらめき、仕事への情熱を目の当たりにしてきました。改善の余地を見逃さない鋭いまなざし。たゆまぬ研究心と改良の努力。それを周囲にも厳しく求めてゆきます。

 そんな小林一三に刺激を受けながら仕事に取り組んだ日々を、事業のウラ話をからませながら、親しみやすい文章で語っています。

 

 小林一三は60歳を過ぎてから、はじめて海外視察旅行にでかけますが、当時30代だった著者もこの旅に随行しました。この時の思い出は、特に印象深かったようで、本の中でもたびたび取り上げています。

 特別気に入って入手した骨董品をはなさず、旅行中ずっと手ずから持ち運びしていたことや、旅行中のほんの数日の間に、1冊分の原稿を書き上げてしまうほどの筆のはやさなど、小林一三の経営者以外の顔をとらえた印象的なエピソードも披露しています。

 

 故人と過ごした日々への愛惜とともに、その側で学んだことを次代の人に伝えたいという思いも込められた本です。

 

 この本の目次を目録に載せています。

 どんな話が載っているのか、気になりましたらコチラをご参考に。

 

 

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記 【第15回】~闘牛~

 昭和を代表する作家の一人、井上靖の作品に「闘牛」という中編小説があります。

 「闘牛」と聞くと、スペインの闘牛、闘牛士と闘牛の戦いを思い浮かべる方がいらっしゃるかもしれません。ところが、日本の「闘牛」とは、牛対牛、いわゆる牛相撲を指し、郷土の伝統競技として、現在も日本各地で行われています。

 その一つ、愛媛県宇和島の闘牛を、兵庫県西宮で行おうと奔走する人間たちを描いたのがこの作品です。

 

 

 実は、この闘牛大会のモデルとなったイベントがありました。

終戦からまだ1年半ほどの昭和22(1947)年1月、阪急西宮北口駅近くにあった西宮球場で、実際に行われた南予闘牛大会です。

宇和島の闘牛の阪神初公開の場でもありました。主催は新大阪新聞社。当初2日間の予定でしたが、2日目の午前の部が雨で中止となり、順延して3日間となりました。

宣伝のために、思い切った前奏行事も行われています。

梅田-難波間や神戸市内で、化粧まわしで飾った出場牛のパレードを行ったり、”カルメン”の曲を流すサウンド・トラックを走らせたり、中之島で招待券やビラを仕込んだ花火を打ち上げたり。

大会の盛り上げに、相当な力の入れようです。

 

 

 井上靖がこの大会を訪れたのは、みぞれ降る寒い日だったといいますから、2日目だったのでしょう。

 悪天候のせいで、まばらな観衆。垂れ下がるのぼり。リングでは二頭の牛が角を突き合わせたまま微動だにしない。それを声もなく見おろす観衆・・・。そんな会場風景から、井上は悲哀を感じたといいます。それが、当時の日本が、社会が、日本人が持っていた悲哀に通ずると感じ、このことを書きたいと思ったそうです。

 

 小説の闘牛大会は成功しません。小説では開催予定は3日間。そのうちの2日間が雨で中止という、事実と異なる痛々しい結果で描かれ、なんともやるせない後味をのこします。作者の目指すところに沿うよう、こう描かれなければならなかったのでしょう。

 井上靖は、この作品で芥川賞を受賞しています。

 

 西宮では、球場または球技場で、以降もたびたび闘牛大会が開かれました。一度きりとならなかったのは、小説ほどには、寂しい結果ではなかったことの表れではないでしょうか。井上靖も「実際にはこの闘牛大会は新聞社の事業としては宣伝効果からみても大きい成功をおさめ…(略)」と語っています。

 

 池田文庫所蔵の、阪急沿線のイベントポスターの中に、昭和36年から昭和53年にかけて行われた、5度の闘牛大会の宣伝ポスター6枚を確認できます。(あいにく小説のモデルとなった初回のものはありません。)

 

 見ると、内容も初回から進化しています。やはり闘牛で有名な鹿児島県徳之島の牛と、宇和島牛との対戦を企画するなどの趣向が凝らされていることもわかります。

 

阪急文化アーカイブズで、「闘牛 西宮」と検索すると、これらの画像がご覧いただけますので、ぜひお試しください。

 

参考資料:    毎日新聞 昭和25年2月2日 井上靖「『闘牛』について」

      夕刊新大阪 昭和22年1月刊の各号

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記 【第14回】~ナイト・カブキ~

 東京オリンピックまで一年を切りました。来年はいったいどんなお祭り騒ぎになるのでしょう。押し寄せる訪日客を当て込んで、各界では様々な計画が進行していることと思います。

 さて、先の1964年東京オリンピック時はどうだったのか。今回は、1964年10月の東京演劇界の様子をちょっと覗いてみたいと思います。

 

 まずは、歌舞伎座。

 昼夜の歌舞伎興行に加えて、「ナイト・カブキ」と称した深夜興行が行われました。なんと開演は夜の9時40分で終演は0時。オリンピック関係者を招待した貸切公演もおこなわれました。選手達も歌舞伎を楽しんだんですね。

 

 

 上は池田文庫が所蔵するナイト・カブキの公演プログラムです。日本語のほか、英語、フランス語の解説も併記して、訪日客を意識していることがよくわかります。

 演目は、第1部に「暫」,「楼門五三桐」,文楽の「櫓のお七」。第2部は赤坂芸妓による踊り「舞妓」。歌舞伎以外の伝統芸能も織り交ぜた構成でした。

 大向うのかけ声に、外国人のお客さんはびっくりした様子だったといいます。

 

 

 東京宝塚劇場は宝塚歌劇公演。専科・月組による「ユンタ」と「日本の旋律」です。

 1本目の「ユンタ」は当時宝塚歌劇団内にあった郷土芸能研究会(当時・日本郷土芸能研究会)が沖縄県八重山群島を取材し、この地方の芸能を舞台化したものです。ユンタとはこの地方に伝わる作業歌のことをいいます。2本目の「日本の旋律」はタイトルの通り、古今の日本の歌やメロディーを集めて構成したもの。

 どちらも日本独自の音楽や踊りで魅せる演目だったのは、外国人の観客が増えることを見込んでのことかもしれませんが、これを観て、日本の音楽の多様性に目を開いた日本人観客も少なくなかったのではないでしょうか。

 

 ちなみに東京宝塚劇場でも深夜興行がありました。長谷川一夫製作・構成・演出・主演の『東宝歌舞伎おどり』です。生憎、この公演プログラムは池田文庫にはありませんが、9時半から10時50分と、こちらもかなり遅い時間だったよう。歌舞伎座といい、劇場関係者はさぞや忙しい日々だったろうと思います。

 

 さて、来年のオリンピック開催時も、東京の演劇界は外国人のお客様を意識せずにはいられないと思います。

 50年の間に、外国人への日本のアピールポイントも変化してきました。その変化が、劇場でかけられる演目にも表れるでしょうか。来年の演劇界のライン・アップに注目です。

 

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第13回】~キネマ旬報~

『キネマ旬報』が創刊100周年を迎えました。創刊は1919(大正8)年。数ある映画雑誌の中で、『キネマ旬報』がその代表格のように見られるのは、まさにこの歴史の長さからくると思います。

 

雑誌は定期的に発刊し、書店に並ぶものも常に新しい号へ入れ替わるわけですから、読者は現代人と想定するのが通常です。『キネマ旬報』は、それに加え、後世へ残る記録として、後々の活用も意識されているように感じます。

 

そのことは、毎年2月下旬号と3月下旬号が、一年を振り返る内容で、ちょっとした映画年鑑のような装いになることにも表れています。特に2月下旬号に収録されるリスト類や索引は、調べたいことに関する記事を探すのに、しばしば活用しています。

また、この号ではキネマ旬報ベスト・テンが発表されます。この賞の発表を楽しみにしている映画ファンは、結構いらっしゃるのではないでしょうか。

 

さて、100年、そして旬刊という発行ペースから、これまでに刊行された冊数は2600を超えます。実は池田文庫、この大部分を所蔵しているんです。

  左は池田文庫が原本で所蔵するものの中で、最も古い大正9(1920)年2月11日号。(これ以前は復刻版を所蔵しています。) そして右は1923年11月21日号。9月の関東大震災の被害により、一時期兵庫・西宮に移転していたときに発行されたもの。関西とも縁のある雑誌だったんですね。 いずれも一色刷り、ページ数も少ないです。   大正の終わり頃から徐々に鮮やかな多色刷の映画広告が入るようになります。(写真はいずれも昭和2年頃のもの)
  精密さにおいては現代の印刷物と比ぶべくもないのでしょうが、これはこれで、眺めていて楽しいものです。 当時から、映画会社はきそって『キネマ旬報』にこうした広告を載せたがったとか。発行部数がふえると、そのぶん損するという話もあったようです。*   大正から令和まで、四時代を生きぬいてきた『キネマ旬報』。映画業界の歴史のみならず、雑誌自身の歩みに注目して、読んでみるのも面白そうです。   *岩崎昶「映画ジャーナリズムの責任と反省」(「キネマ旬報」昭和43年7月1日号)       (司書H)