阪急文化財団ブログ

池田文庫の本棚放浪記【第19回】大正の阪急沿線情報誌~『山容水態』その2~

前回に続き、大正時代の沿線情報誌『山容水態』についてです。


前回ご紹介したのは、宝塚線の観光地の魅力を発信する『山容水態』でした。

ところが、『山容水態』には、観光地のほかにもう一つ、アピールしたいことがあったんです。

 

箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)は、鉄道経営の一方で、沿線のまちづくりも進めていました。池田室町を皮切りに、建売り住宅の販売を各地で開始します。

 

土地家屋が売れると、その利益が得られる上、そこで暮らす住人が安定的に鉄道を利用するようになります。成功すれば、鉄道会社が地歩を固めるのに絶好の事業です。

 

社の命運を握るともいえる事業のPRのため、箕面有馬電気軌道はさまざまな広告物を発行しました。『山容水態』もその一つ。住む場所として、この沿線がいかに魅力的かを伝えること。これこそが、『山容水態』のもう一つの仕事だったんです。

 

  気候のよさ、自然環境のよさ、水の清涼さ、都市部へのアクセスのよさ。さまざまな側面からこの沿線で暮らすことの魅力を伝えています。さらに、病院にも不自由しないことなど、郊外生活の不安をとりのぞく説明もあります。   そして、その販売方法も工夫されました。  
    当時、土地家屋の月賦販売のアイデアは、きわめて画期的なものでした。 「家賃ほどで家屋敷が買える」 現在では、住宅ローンで家の購入を考える人が、必ずといっていいほど思い浮かべるフレーズではないでしょうか。その浸透ぶりから、このアイデアが世にあたえたインパクトの大きさがうかがえます。   大正時代にご先祖さまが宝塚線沿線に移り住んだという方、移住の決め手になったのが、この『山容水態』の広告だった、なんてこともあるかもしれません。  
  さて、この『山容水態』、前々回の『ドンブラコ』でも登場し、合わせて3回にわたってご紹介してきました。 宝塚歌劇、郷土史、阪急の沿線開発事業史など、多方面から注目される資料ですので、よく閲覧の希望が入ります。 原本は貴重資料ですが、複製を作成しておりますので、そちらでご覧いただけます。   また、掲載記事の索引も作成しています。索引は池田文庫の蔵書検索で検索できます。調べものの際には、ぜひご活用ください。       (司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第18回】大正の阪急沿線情報誌『山容水態』その1

2020年、阪急電鉄は開業110周年を迎えます。明治終盤にはじまり、大正、昭和、平成を越え、そして令和と、時代とともに阪急沿線も変化を続けてきました。

 

そんな沿線の最新情報を知るには、阪急沿線情報誌が便利です。折々のおすすめスポットやイベント情報を教えてくれる冊子で、現在は『TOKK』というタイトルで、阪急電鉄の各駅で配布されています。

 

行楽のお供にと、何気なく手にとられたことのある方も多いでしょう。しかし、これが将来、沿線の歴史の情報庫になりうることまで想像しながら読む人は少ないかもしれません。

 

今回ご紹介する『山容水態』は大正時代の阪急沿線情報誌。まさに、草創期の阪急と当時の沿線について、貴重な情報の宝庫となった例です。月刊のレギュラー版ですと、池田文庫では大正2~5(1913~16)年のものを所蔵しています。この頃はまだ宝塚線のみの運行でしたので、載っている情報は宝塚線沿線のものです。

 

  この中では、当時の沿線に存在したレジャー施設が紹介されています。   例えば、箕面公園には自然の渓谷を利用してつくられた箕面動物園がありました。   全国中等学校優勝野球大会(後の全国高等学校野球選手権大会)の第一回・二回が行われた場所として知られているのは、豊中グラウンド。『山容水態』では、アメリカの大学野球チームと日本の大学野球チームが戦う日米野球戦など、国際色あるイベントも度々開催されていたことがわかります。  
  宝塚新温泉(後に宝塚ファミリーランド)では、当時から温泉の他にもさまざまな娯楽設備を備えて温泉客を楽しませました。そのひとつだった室内水泳場は劇場に転用され、宝塚少女歌劇の公演が行われるようになります。→【第17回】~ドンブラコ~ 図書室もありました。これは後に宝塚文芸図書館、池田文庫へと引き継がれていきます。   また、四季折々の自然美でも行楽客をひきつけようと、さかんに宣伝しました。もちろん当時から、箕面公園は景勝地として宝塚線の観光の目玉の一つ。一方で、松茸狩や宝塚の梅の名所・宝梅園など、今の宝塚線では聞かれなくなったレジャーも目につきます。  
  変わらないものと変わったもの。ぜひ、今の沿線、記憶の中の沿線と比べながら読んでみてください。   『山容水態』は複製資料で御覧いただけます。   さて、このように『山容水態』は、電車の乗客となってくれる観光客を増やすため、観光地としての沿線の魅力を発信していました。 ところが、この雑誌には、もう一つ大きな目的がありました。それは、沿線の住人を増やすこと。そのために、住む場所としての沿線の魅力を発信していたんです...が、今回はこのあたりで。次回に続きます。       (司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第17回】~ドンブラコ~

北村季晴作の歌劇『ドンブラコ』。

この作品は大正3(1914)年4月に披露された宝塚少女歌劇第一回公演の演目の一つです。

宝塚新温泉の娯楽施設の室内プールを劇場に転用したという印象深いエピソードとともに、ご記憶の方は多いかもしれません。

管絃合奏や合唱にダンス、喜歌劇も同時に上演されていますが、5場からなる『ドンブラコ』は構成の中心だったといえます。

 

宝塚歌劇団の年史類をひらくと、桃太郎をはじめ登場キャラクターに扮する少女たちの初々しい姿を目にすることができます。もっと『ドンブラコ』について知りたいと思われる方もいらっしゃるかもしれません。

 

どんな内容で、誰がどんな役をしていたのか。そんなことも分かるのでしょうか。

実のところ、宝塚歌劇の資料を集中的に収集する池田文庫においても、『ドンブラコ』を伝える資料というのはきわめて少ないのです。

公演ポスター、プログラムは所蔵していません。当然ながら、機関誌『歌劇』もまだ創刊されていません。

 

池田文庫所蔵資料の中で、当時の公演を伝えるものとして挙げられるのが、『山容水態』。かつて箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)が発行していた沿線案内パンフレットです。

現在『TOKK』という阪急の沿線情報をのせた冊子が発行されていますが、『山容水態』も、阪急草創期の沿線情報誌と考えていただくと、わかりやすいかもしれません。

 

  上は、『山容水態』大正3年4月号 (複製資料を撮影)。宝塚新温泉で行われていたイベントが特集されています。その一つとして宝塚少女歌劇第一回公演を紹介し、少女たちの西洋音楽へのチャレンジを高らかに宣伝しています。演目や配役も詳しく伝えています。   作品そのものを知るには、次のような資料もあります。  
  この本は明治45(1912)年3月に刊行されました。楽譜、脚本、舞台装置例もついていて、これをもとに『ドンブラコ』の上演ができるようになっています。第一回公演にかかわった人たちがお手本にしたのも、こうした類いの本だったかもしれません。池田文庫が所蔵しているものには、「聲音之部」とあり、楽譜は歌部分のみです。   キジ、猿、犬がおのおのの鳴き声で合唱しつづけるところは、ユニークで興味をひかれます。なかなか難しそうにもみえますね。  
  100年を越える宝塚歌劇の歴史。そのはじまりはこんなに素朴でかわいらしい舞台だったのだと、今に伝えてくれる資料です。   ※ご紹介した資料は複製でご覧いただけます。       (司書H)

『阪急文化研究年報』第8号を刊行しました

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さて『阪急文化研究年報』第8号を刊行いたしました。

掲載論文・資料紹介は下記の通りです。

 

■論文
正木喜勝「恒富、月斗、箕面電車 ―池田文庫所蔵ポスター《大阪梅田箕面電車》の史料的意義―」
■資料紹介
仙海義之「連載(四) 「十巻抄」一〇巻(重要文化財)第七巻・第八巻」
竹田梨紗「連載(八) 逸翁美術館蔵「芦葉会記」(昭和二十三年)」
宮井肖佳「小林一三の目指した文化ネットワークとその意義(七)―「瀧柳」関係資料と『曽根崎艶話』に見る堂島と小林一三―」
■事業報告

閲覧ご希望の方は池田文庫にお越しいただくか、お近くの公共図書館や大学図書館にお尋ねください。

 

(学芸員A)

池田文庫の本棚放浪記【第16回】~小林一三翁に教えられるもの~

 阪急の創業者、小林一三についての本はたくさんあります。その中でも、直接かかわった人々が語るエピソードは、後世の人が小林一三を知るうえで、大切な証言といえます。

 

 こうした証言は、特に逝去した昭和32(1957)年、新聞・雑誌に追悼文としてたくさん掲載されました。親交のあった著名人たちによる追悼文集「小林一三翁の追想」という分厚い単行本もあります。

 

 今回ご紹介する『小林一三翁に教えられるもの』(1957年刊) もそうした追悼本の一つです。注目したいのは、小林一三の仕事ぶりを長く側で見てきた人が、一冊の本になるほどの量の言葉を残してくれたということです。

 

 

 著者の清水雅は小林一三に誘われ、昭和4年に阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)に入社しました。のちには、阪急百貨店、東宝、阪急電鉄をはじめ、グループの数々の企業の要職を歴任した人物です。

 

 著者は、小林一三のアイデアのひらめき、仕事への情熱を目の当たりにしてきました。改善の余地を見逃さない鋭いまなざし。たゆまぬ研究心と改良の努力。それを周囲にも厳しく求めてゆきます。

 そんな小林一三に刺激を受けながら仕事に取り組んだ日々を、事業のウラ話をからませながら、親しみやすい文章で語っています。

 

 小林一三は60歳を過ぎてから、はじめて海外視察旅行にでかけますが、当時30代だった著者もこの旅に随行しました。この時の思い出は、特に印象深かったようで、本の中でもたびたび取り上げています。

 特別気に入って入手した骨董品をはなさず、旅行中ずっと手ずから持ち運びしていたことや、旅行中のほんの数日の間に、1冊分の原稿を書き上げてしまうほどの筆のはやさなど、小林一三の経営者以外の顔をとらえた印象的なエピソードも披露しています。

 

 故人と過ごした日々への愛惜とともに、その側で学んだことを次代の人に伝えたいという思いも込められた本です。

 

 この本の目次を目録に載せています。

 どんな話が載っているのか、気になりましたらコチラをご参考に。

 

 

 

(司書H)