阪急文化財団ブログ

池田文庫の本棚放浪記【第24回】~阪急電車駅めぐり~

見慣れた景色に変化があると、「あ、変わった!」とお気づきになるかと思います。でも、新しい景色に慣れてくると、前の姿をだんだん思い出せなくなってきませんか。通勤・通学で毎日利用する駅の風景もまた然り。

昔の駅のことを知りたい、写真を見たい。池田文庫には「阪急沿線の駅」に関するご相談がしばしば寄せられます。そんな時、まず開いてみることをおすすめするのが、今回ご紹介する『阪急電車駅めぐり 空から見た街と駅』(1980-81年)です。今から40年ほど前に阪急電鉄から出た本です。

 

当時は駅の今昔を紹介する目的とした本でした。ですが、こののち改築や高架化された駅も多く、沿線の地域開発もまた進んでいます。この本の中で最新として紹介されている写真も、現在ではその面影が全くない、という場合が少なくありません。

でも、昔から沿線の風景を見てきた方々にとっては、はっとしたり郷愁を誘われたりする、なつかしい風景かもしれません。「こんなだったの!?」という大昔の風景と、「そういえば、こんなだったなあ...」という、ちょっと昔の風景を楽しめる本です。

 



 

さてこの本は、1駅につき1章の構成で、駅と周辺地域の歴史を紹介しています。調べたい駅の情報にすぐにたどり着けるところが、とても便利です。

廃止された駅についても、その前後駅のところで触れていたりします。3冊なのは、宝塚線、神戸線、京都線の各線につき1巻あるためです。

 

最も早くに開通した宝塚線の巻は、明治末期の阪急草創期の写真も含みますし、神戸線の巻は、戦前の阪神との競い合いにまつわる話、乗務員・駅員の話なども盛り込まれていて、阪急の発行物ならではの逸話を披露してくれます。

京都線は、新京阪、京阪、阪急・京阪の合併、分離ののち阪急と、複数の鉄道会社を経てきました。千里線にいたっては、その前身に北大阪電気鉄道も加わります。そのため、資料の散逸をまぬがれなかったのか、資料集めに苦労したようです。でも、その紆余曲折にこそ、歴史の妙味あり。読み応えのある巻になっています。

 

駅の本には、『阪急ステーション 写真で見る阪急全駅の今・昔』(2001年)という本も阪急から発行されています。こちらは3線を1冊にまとめています。1駅に割くページは少ないですが、『駅めぐり』に出てこなかった写真も掲載されていたりしますので、こちらもぜひチェックしてみてください。

 

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第23回】~日本劇場~

 池田文庫には宝塚歌劇や歌舞伎以外の上演資料も豊富に所蔵しており、現在もその整理作業をすすめています。


 先だって、東京にあった日本劇場(通称:日劇)の上演プログラムの整理作業を終え、池田文庫の蔵書検索で検索できるようになりました。そのご報告がてら、今回は日本劇場に関する資料をご紹介したいと思います。

 

 日劇は昭和8(1933)年の暮れ、東京・有楽町に開場します。"陸の竜宮"のキャッチ・フレーズで、3階席まで観客を収容できる大劇場でした。しかし経営難から、程なくして東宝(当時・東京宝塚劇場)の傘下となります。

 

開場式プログラム(逸翁文庫より)

 


 日劇は、映画とともにさまざま舞台パフォーマンスを上演する劇場でした。そのパフォーマーとして活躍したのが、日劇ダンシング・チーム。男女混成の舞踊団です。


 初公演の昭和11(1936)年の1月から昭和56年(1981)年2月に日劇が閉館するまで、40年以上にわたり、日劇の舞台を彩りました。

 

 この日劇ダンシング・チームをつくり、その育成に情熱をそそいだ人物がいます。秦豊吉(1892-1956)です。この人物は異色の経歴の持ち主でした。東宝に入社し、はじめて演劇事業の世界に飛び込んだのが41歳。それまでは商社マンでした。


 一方で、ドイツ文学・演劇に造詣が深く、文筆業でも精力的に活動しました。翻訳や随筆を多くのこしています。商社マンとしてドイツに駐在していた期間には、現地で存分に文学・演劇に触れ、その見識にますます磨きをかけました。


 そこからの演劇事業への転身。紆余曲折を経てきたようにも、通るべき道をずんずん歩んできたようにも見えます。

 この多才でパワフルな人物に着目し、その足跡を追った『行動する異端 秦豊吉と丸木砂土』(森彰英著)という本が出ています。また、秦豊吉の遺稿集『日劇ショウと帝劇ミュージカルスまで』では、本人による文章で当時の日劇の様子を知ることができます。

 日劇ダンシング・チームのステージの様子や、「熱した鉄板の上に素足で立っている心持」と表した、時間に追われるなかの鬼気迫る稽古場風景なども語られています。興味をもたれた方は、ぜひご覧になってみてください。

 

 秦豊吉は戦中まで日劇ダンシング・チームを率いました。上演してきたもののなかに、民族舞踊を題材とした一連のショーがあります。これらのショーをつくるために、現地へスタッフが派遣され、取材が行われました。派遣先は日本国内にとどまらず、アジア圏にもおよんでいます。

 そのスタッフの中に、渡辺武雄という人物がいました。台湾へ取材に行き、その成果をもとに、『燃ゆる大地・台湾(山の巻)』という作品を手がけています。

 渡辺氏は、のちに宝塚歌劇団の演出家、そして宝塚歌劇団の郷土芸能研究会の中心的なメンバーになります。郷土芸能研究会は、日本各地の民俗芸能を取材し、その成果を舞台化しました。渡辺氏は、日劇でのこの経験が、「宝塚で民俗舞踊シリーズの作品に取り組む原動力となった」*と語っています。

 郷土芸能研究会が収集した民俗芸能資料は、現在、池田文庫が所蔵しています。この膨大なコレクションの種は、日劇で蒔かれていたと言っていいのかもしれません。

 

*池田文庫編『宝塚歌劇における民俗芸能と渡辺武雄』p146

 

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第22回】~変化するタカラヅカのプログラム~

 公演中、劇場内で販売される宝塚歌劇のプログラム。観劇前にはワクワク感を高め、観劇後には余韻にひたらせてくれる存在です。

 100余年の歳月のなか、宝塚歌劇のプログラムも変化して、現在のかたちになりました。では、昔のタカラヅカのプログラムって、一体どんなものだったんでしょう。

 今回は、池田文庫所蔵の宝塚での本公演プログラムから、その移りかわりをご覧いただきたいと思います。

 

大正時代のプログラム

 下は、現在池田文庫の所蔵する、宝塚で行われた公演プログラムのなかで最も古いもの。初公演からおよそ2年後、大正5(1916)年の7月から8月にかけてパラダイス劇場で行われた公演のプログラムです。この公演については、配役ちがいで2種類のこっています。

 演目と配役だけを載せたとてもシンプルなものです。これでは、演目がどんな内容だったかまではわかりません。それには脚本集という別の発行物があり、上演された舞台の内容は、そちらで振り返ることができました。池田文庫では、脚本集も大正時代のものから所蔵しています。

 

昭和初期から戦後にかけて

 プログラムは、演目と配役が1枚ではおさまらないときは小冊子になり、昭和初期には小冊子が常態となります。まだ大きさはずいぶん小さくて、手のひらサイズです。

 昭和7年頃より、表紙デザインにタカラジェンヌの写真も使われはじめます。このままデザインの主役は、イラストレーションから写真に移るかと思いきや、時代はまもなく戦争へ。戦時下の興行の苦難はデザインにも影響し、表紙はまたイラストレーションにもどります。図柄も和風、または時局に則した堅苦しいものになってしまいます。

 

昭和5~10年頃(左) 昭和21年4月(右)

 戦後、昭和21(1946)年4月公演で宝塚大劇場は再開しました。上の右側の写真がその時のプログラムです。

 戦後の混乱期ですから、表紙は戦前の方が華やかにみえます。ですが、内容は、演目と配役だけでなく、出演者の写真も載るようになりました。イラストレーションより写真を多用する時代に本格的に入っていきます。

 

プログラムが2種類? そして現在へ

 じきに、脚本を掲載した冊子の発行も再開します。そちらもやがて「プログラム」と称するように。

 下はどちらも同じ公演のときに発行されたものです。このように、しばらくは演目・配役を載せたシンプルなタイプと、脚本入りのものが並行していました。やがて脚本入りの方だけが残ります。

 プログラムに脚本が掲載されるかたちは、平成10年頃までつづきます。

 

昭和48(1973)年2月

 

 現在のプログラムには脚本は掲載されていません。

 脚本入りの頃と違いは、写真がふえ、さらにカラフルに華やかになったこと。舞台となった国・時代の歴史的背景のうんちく、出演者の言葉などにもページを割いて、より深い鑑賞へ導いてくれるものになったことです。

 脚本の掲載はなくなってしまったことを、残念に思われる方もいらっしゃるでしょう。

 そんな方は舞台写真集の「Le CINQ (ル・サンク)」を手にとってみてください。

 大正時代の脚本集からつづく脚本掲載は、現在こちらが引き継いでいます。宝塚大劇場公演の華やかなステージ写真とともに、芝居物の脚本(一部除く)は、こちらで読むことができます。

 

プログラム(左)   舞台写真集「Le CINQ」(右)

 

 

[司書H]

 

池田文庫の本棚放浪記【第21回】~今昔たからづか~

 池田文庫が所蔵する宝塚歌劇関連資料の中には、タカラジェンヌやOGが執筆した本も含まれます。今回はその中から、冨士野高嶺著『今昔たからづか -花舞台いつまでも-』(1990年)をご紹介したいと思います。

 

 作者の冨士野高嶺氏は昭和3(1928)年に宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)に入学。翌年に初舞台を踏んでから、昭和47(1972)年の退団まで、40年以上の長きに渡り宝塚歌劇の舞台を支え、退団後も日本舞踊の指導者として貢献をつづけました。

 

 冨士野氏が舞台以外の場所でみせた才能が、文才と画才です。『歌劇』などの宝塚歌劇団の機関誌で、たびたびその才能を発揮しました。この本も『歌劇』誌に掲載した宝塚における舞台生活に関する文章をまとめたものです。

 

 

 表紙を、本人による粋な絵が飾っています。文章にも絵にも共通しているのは、生き生きとして、ユーモアにあふれているところです。

 

 文章中に時折日記が引用されており、作者が日記をつけていたことがうかがえます。それが思い出を掘りおこすよすがとなっているのでしょう。今にも舞台のさざめき、生徒たちのハツラツとした声がきこえてきそうな臨場感があります。

 

 入学試験、予科生時代、初舞台、舞台中のハプニングなどのタカラジェンヌの通過儀礼はもちろん、尊敬する師、上級生・同期生との触れ合いから生まれた、ゆかいな逸話が盛りだくさんです。

 笑い話、失敗話、怒られ話、しみじみする話。

 登場する顔ぶれも、久松一聲、岸田辰彌、白井鐵造、天津乙女、門田芦子、奈良美也子、春日野八千代などなど、オールドファンにはおなじみの人々でいっぱいです。

 ゆきし日の宝塚歌劇の舞台裏の世界をたっぷり堪能できる本です。

 

 小林一三に似顔絵をプレゼントしたときの話も出てきます。このときの絵も小さくですが、掲載されています。プロはだしのとてもユーモラスな絵ですので、ぜひご注目ください。

 

 戦争という厳しい時代を乗り越えたOGの著書は、情報の少ない戦時中の宝塚歌劇団の活動について、貴重な証言を与えてくれる存在でもあります。『今昔たからづか』が、そうした本であることも注目したい点の一つです。

 

 

(司書H)

 

池田文庫の本棚放浪記【第20回】~大阪の宿~

外出がままならない日々、積読本の消化に励んでおられる方も多いでしょうか。私もその一人で、ながらくほったらかしにしていた本に手をつけることができました。

今回はその中から一冊、大阪が舞台の名作として名高い、水上滝太郎著『大阪の宿』をご紹介します。もちろん池田文庫でも所蔵している本です。

 

著者・水上滝太郎(1887-1940)は東京生まれ。慶應義塾大学卒の、いわゆる三田派と呼ばれる作家のひとりです。作家と会社員の二足のわらじを履き、文学界だけでなく、実業界にも足跡を残した人でした。

実は『大阪の宿』は、そんな水上の会社員生活がなければ生まれませんでした。大阪に赴任した時の経験がこの作品のルーツになっているからです。

主人公・三田は、東京から大阪に赴任してきた会社員で、生活の合間に小説を書くという、著者自身を投影したような人物です。

同じ主人公で『大阪』という作品があるのですが、こちらは来阪早々暮らし始めた下宿屋の話が中心で、最終的にはその下宿屋のがめつさに嫌気がさして出ていくところで終わります。

『大阪の宿』は、そのあと、三田が土佐堀の川べりにある酔月という旅館を見つけ、新しい住まいに定めるところからはじまります。

 

『大阪』の下宿屋とくらべて、酔月は三田にとって暮らしやすいところでした。そこで会社勤めと執筆活動の二重生活を送るなか、さまざまな人に出会います。

相性のよくない人もいますし、苦々しい内実が耳に入ることもあります。裏切りにあったり、厚かましさにあきれたり。したたかでどこか憎めない面々と付き合いながら、三田の大阪暮らしがすすんでゆきます。

なかでも強烈な個性を放つのが、芸者の蟒(うわばみ)姐さん。酔うと誰彼なく、ものすごい剣幕でコップ酒を強要する、実際酒席にいたら迷惑極まりない人なのですが、反面、裏表のない性格で、読むにつれ物語に清々しい印象を与える不思議な存在になっていきます。

ときおり差しはさまれる大正時代の水都大阪をうつす美しい風景描写も、この小説の読みどころのひとつです。

 

さて、『大阪の宿』は現在品切れのようですが、電子書籍など、ご自宅で手に入る方法もあるようです。もしご興味がありましたら、ステイ・ホーム中の読書候補の一冊に加えていただけると幸いです。

小林一三の旧蔵書・逸翁文庫より

  余談ですが、慶應卒で実業界にも身を置いていた水上滝太郎。同じく慶應卒の小林一三とのつながりを探ってみたくなりますが、実際交流はあったようです。 三田派の牙城の文学雑誌『三田文学』の水上滝太郎追悼号、全集の刊行記念号*には文を寄せて、その早逝を惜しみ、また愛読者であることも明かしています。 特に一読をすすめているのは評論・随筆集の『貝殻追放』。 一三翁のおすすめにしたがい、こちらもぜひ読んでみなければと思っています。  

*『三田文学』1940年5月臨時増刊号、10月号

      (司書H)