阪急文化財団ブログ

池田文庫の本棚放浪記【第26回】~笑い泣き人生~

 朝の連続テレビ小説は、現在、大阪・道頓堀が舞台。主人公たちは、新しい喜劇を目指して奮闘中です。これを機に、日本の喜劇の歴史に注目された方も多いのではないでしょうか。

 

 今回ご紹介するのは、はじめて喜劇なるものを舞台にかけ、喜劇王の名声をほしいままにした曾我廼家五郎の伝記小説、『笑い泣き人生』をご紹介したいと思います。

 著者は、実際に五郎と親交のあった長谷川幸延です。

 

 

 この小説では、さまざまな人との出会いと別れが描かれます。その中でも、出会いが人をつくるということを、とくに強く感じさせるのが、曾我廼家十郎の存在です。

 

 喜劇に身を投じるまで、曾我廼家五郎は中村珊之助という歌舞伎役者でした。

 その珊之助が福井座という一座にいたとき、年長の仲間に中村時代という役者がいました。これが後の曾我廼家十郎です。二人は手を取り合い、新たに喜劇でやっていくという夢をめざします。

 そして明治37(1904)年2月、道頓堀・浪花座で、曾我廼家十郎・五郎一座の旗揚げへとこぎつけます。しかし折悪しく、日露戦争が始まります。号外が飛び交い、芝居見物どころではないという空気のなか、客を呼ぶにはどうするか。知恵をしぼって書き上げたのが『無筆の号外』。これを興行の途中から舞台にかけました。

 洋食屋の開店チラシを、文字の読めない人が号外と勘違いして受け取ったことからはじまる騒動を描いたこの芝居は、時局にマッチしていたこと、皿を次々に割っていくという演出の痛快さが受け、大当たりします。

 

 失敗と成功を繰り返しながら、二人は一座を人気劇団へ育てていきます。小説は、盟友でありながらライバルでもある、二人の複雑な心境をも描きます。

 

 実際に五郎は、十郎の芸風をこう評しています。「一見作意のない、ごく自然のままのようでいて、ふらりと舞台に現われると、もうそれだけでユーモアが舞台にあふれ出て、なんとも言えぬ妙味を漂わせる」。*

 その天才的な芸に、五郎は声をふりしぼったり、身振りを滑稽にしたりと、どぎつい演技で対抗しました。十郎の存在こそが、喜劇王・曾我廼家五郎の芸風を生んだというわけです。小説では、義太夫を習ってわざと声をつぶす、五郎の壮絶なまでの芸への執念が描かれます。

 

 対極の芸をもつ人気者の二人が両輪となって劇団をうごかしていく。理想的な関係にみえますが、芸風の違いは、やがて目指す喜劇の違いとなってあらわれ、袂を分かつことになります。

 相手を気にかけながらも、再び手を組むことはよしとしない。人情と芸の道とのはざまで揺れる五郎の複雑な心情は、この物語の読みどころの一つになっています。

 

 

さて、池田文庫では、曾我廼家五郎に関する上演資料や本人の手による絵や色紙なども所蔵しています。

 上の冊子は過去の展示の際に発行したもので、そのコレクションの一部を紹介しています。曾我廼家五郎の人生に興味をもたれた方には、こちらも、ぜひ手にとっていただきたいと思います。

 

*曾我廼家五郎「喜劇一代男」(「日本の芸談5」(九芸出版 1978年) 所収)

 

(司書H)

 

池田文庫の本棚放浪記【第25回】~愛しのタカラヅカへ~

寒い日が続きますね。今年の読初めにはどんな本を選びましたか?

こちらのコーナーの本年最初の一冊は、宝塚歌劇に関する本『愛しのタカラヅカへ』(1984)を選ばせていただきました。

 

この本の著者・香村菊雄氏は、戦前・戦後に宝塚歌劇団で活躍した脚本・演出家です。香村氏が手がけた宝塚歌劇の作品には、中国の古い物語を下敷きにしたものが多くみられるのが特色です。

後には、同じく宝塚を拠点にしていた男女混成の劇団、宝塚新芸座の座付作者となり、数多くの作品の脚本や演出の仕事を行いました。

 

香村氏は、幼い頃から宝塚へ足繁くかよった、宝塚歌劇の熱心なファンでもありました。なんと大正3(1914)年の第一回公演も観たというのですから、最古参のファンの一人ですね。

幼少期に夢中になったお伽歌劇。青年期に外国映画へ傾いていた心を、ふたたび宝塚へと引きもどした『モン・パリ』(1927)。その『モン・パリ』も色あせて感じたという『パリゼット』(1930)の衝撃。協同演出者として関わった戦後の大ヒット作『虞美人』(1951)のことなど。

宝塚歌劇を長く見てきた人が語る思い出は、そのまま宝塚歌劇の歩みと重なりますので、読書を楽しみながら、宝塚歌劇の歴史まで学べてしまう本です。

 

ですが、この本の魅力は、なんといっても年表の行間を埋めてくれるような話、当時を生きた人にしかわからない実体験にもとづく逸話の数々ではないかと思います。

 

その中で一つご紹介するならば、戦後、接収が解けて宝塚大劇場が返還されてからの復興期のところでしょうか。

当時は、誰もが物資不足に困っていた時代でした。観客にとって常に目新しい衣装や道具類を用意するのは容易ではありません。

リフォームしたり、衣装倉庫に眠っている衣装を掘りおこしたり。限りある物資の中で、製作スタッフの創意工夫がありました。

そして、修繕もままならず、すきま風が入る寒い稽古場で、稽古に励むタカラジェンヌたち。

悪環境に負けない気概は、ふたたび大劇場で舞台をやれる喜びからも来ていたのではないでしょうか。おとろえない舞台への情熱、たくましさに感銘をうけたエピソードです。

 

そのほかにも印象深いエピソードがいくつも登場します。

この本の内容についてもっとくわしくお知りになりたい場合は、コチラ に目次を載せていますので、どうぞご参考に。

   

(司書H)

阪急文化研究年報第9号を発行しました

201002_表紙2020HK 阪急文化研究年報9号_小林一三「甲洲路」「笹子峠の露宿」「お花団子」

学芸員による調査・研究の成果を発表する『阪急文化研究年報』第9号を刊行しました。

内容は以下のとおりです。今号では、小林一三の"未発表原稿""幻の小説"を掲載しています。

■資料紹介
宮井肖佳 「小林一三未発表原稿「甲洲路」「笹子峠の露宿」の翻刻および解題
正木喜勝 「小林一三作小説「お花団子」とその解題
仙海義之 「連載(五)了 「十巻抄」一〇巻(重要文化財)第九巻・第十巻」
竹田梨紗 「連載(九) 逸翁美術館蔵「芦葉会記」(昭和二十四年)」
■事業報告

閲覧ご希望の方は池田文庫にお越しいただくか、お近くの公共図書館や大学図書館にお尋ねください。

池田文庫は新型コロナウイルス感染症拡大防止策として、ご入館に際して一定の制限を設けております(2020年11月5日現在)。
詳しくは http://www.hankyu-bunka.or.jp/ikedabunko/topics/798/ をご覧ください。

池田文庫の本棚放浪記【第24回】~阪急電車駅めぐり~

見慣れた景色に変化があると、「あ、変わった!」とお気づきになるかと思います。でも、新しい景色に慣れてくると、前の姿をだんだん思い出せなくなってきませんか。通勤・通学で毎日利用する駅の風景もまた然り。

昔の駅のことを知りたい、写真を見たい。池田文庫には「阪急沿線の駅」に関するご相談がしばしば寄せられます。そんな時、まず開いてみることをおすすめするのが、今回ご紹介する『阪急電車駅めぐり 空から見た街と駅』(1980-81年)です。今から40年ほど前に阪急電鉄から出た本です。

 

当時は駅の今昔を紹介する目的とした本でした。ですが、こののち改築や高架化された駅も多く、沿線の地域開発もまた進んでいます。この本の中で最新として紹介されている写真も、現在ではその面影が全くない、という場合が少なくありません。

でも、昔から沿線の風景を見てきた方々にとっては、はっとしたり郷愁を誘われたりする、なつかしい風景かもしれません。「こんなだったの!?」という大昔の風景と、「そういえば、こんなだったなあ...」という、ちょっと昔の風景を楽しめる本です。

 



 

さてこの本は、1駅につき1章の構成で、駅と周辺地域の歴史を紹介しています。調べたい駅の情報にすぐにたどり着けるところが、とても便利です。

廃止された駅についても、その前後駅のところで触れていたりします。3冊なのは、宝塚線、神戸線、京都線の各線につき1巻あるためです。

 

最も早くに開通した宝塚線の巻は、明治末期の阪急草創期の写真も含みますし、神戸線の巻は、戦前の阪神との競い合いにまつわる話、乗務員・駅員の話なども盛り込まれていて、阪急の発行物ならではの逸話を披露してくれます。

京都線は、新京阪、京阪、阪急・京阪の合併、分離ののち阪急と、複数の鉄道会社を経てきました。千里線にいたっては、その前身に北大阪電気鉄道も加わります。そのため、資料の散逸をまぬがれなかったのか、資料集めに苦労したようです。でも、その紆余曲折にこそ、歴史の妙味あり。読み応えのある巻になっています。

 

駅の本には、『阪急ステーション 写真で見る阪急全駅の今・昔』(2001年)という本も阪急から発行されています。こちらは3線を1冊にまとめています。1駅に割くページは少ないですが、『駅めぐり』に出てこなかった写真も掲載されていたりしますので、こちらもぜひチェックしてみてください。

 

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第23回】~日本劇場~

 池田文庫には宝塚歌劇や歌舞伎以外の上演資料も豊富に所蔵しており、現在もその整理作業をすすめています。


 先だって、東京にあった日本劇場(通称:日劇)の上演プログラムの整理作業を終え、池田文庫の蔵書検索で検索できるようになりました。そのご報告がてら、今回は日本劇場に関する資料をご紹介したいと思います。

 

 日劇は昭和8(1933)年の暮れ、東京・有楽町に開場します。"陸の竜宮"のキャッチ・フレーズで、3階席まで観客を収容できる大劇場でした。しかし経営難から、程なくして東宝(当時・東京宝塚劇場)の傘下となります。

 

開場式プログラム(逸翁文庫より)

 


 日劇は、映画とともにさまざま舞台パフォーマンスを上演する劇場でした。そのパフォーマーとして活躍したのが、日劇ダンシング・チーム。男女混成の舞踊団です。


 初公演の昭和11(1936)年の1月から昭和56年(1981)年2月に日劇が閉館するまで、40年以上にわたり、日劇の舞台を彩りました。

 

 この日劇ダンシング・チームをつくり、その育成に情熱をそそいだ人物がいます。秦豊吉(1892-1956)です。この人物は異色の経歴の持ち主でした。東宝に入社し、はじめて演劇事業の世界に飛び込んだのが41歳。それまでは商社マンでした。


 一方で、ドイツ文学・演劇に造詣が深く、文筆業でも精力的に活動しました。翻訳や随筆を多くのこしています。商社マンとしてドイツに駐在していた期間には、現地で存分に文学・演劇に触れ、その見識にますます磨きをかけました。


 そこからの演劇事業への転身。紆余曲折を経てきたようにも、通るべき道をずんずん歩んできたようにも見えます。

 この多才でパワフルな人物に着目し、その足跡を追った『行動する異端 秦豊吉と丸木砂土』(森彰英著)という本が出ています。また、秦豊吉の遺稿集『日劇ショウと帝劇ミュージカルスまで』では、本人による文章で当時の日劇の様子を知ることができます。

 日劇ダンシング・チームのステージの様子や、「熱した鉄板の上に素足で立っている心持」と表した、時間に追われるなかの鬼気迫る稽古場風景なども語られています。興味をもたれた方は、ぜひご覧になってみてください。

 

 秦豊吉は戦中まで日劇ダンシング・チームを率いました。上演してきたもののなかに、民族舞踊を題材とした一連のショーがあります。これらのショーをつくるために、現地へスタッフが派遣され、取材が行われました。派遣先は日本国内にとどまらず、アジア圏にもおよんでいます。

 そのスタッフの中に、渡辺武雄という人物がいました。台湾へ取材に行き、その成果をもとに、『燃ゆる大地・台湾(山の巻)』という作品を手がけています。

 渡辺氏は、のちに宝塚歌劇団の演出家、そして宝塚歌劇団の郷土芸能研究会の中心的なメンバーになります。郷土芸能研究会は、日本各地の民俗芸能を取材し、その成果を舞台化しました。渡辺氏は、日劇でのこの経験が、「宝塚で民俗舞踊シリーズの作品に取り組む原動力となった」*と語っています。

 郷土芸能研究会が収集した民俗芸能資料は、現在、池田文庫が所蔵しています。この膨大なコレクションの種は、日劇で蒔かれていたと言っていいのかもしれません。

 

*池田文庫編『宝塚歌劇における民俗芸能と渡辺武雄』p146

 

 

(司書H)