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しょうりき まつたろう

正力 松太郎[1885 - 1969]

正力 松太郎

読売新聞社社主。

  野球の興隆に熱意を持った正力松太郎は、1934年、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグらが参加する大リーグ選抜チームを招聘し、日本側でも全日本チームを結成した。後、同チームを基礎として大日本東京野球倶楽部(現、読売ジャイアンツ)が創設される。  1936年、職業野球チームのリーグ戦が始まると、東京にもプロ野球専用の野球場の開設が求められた。神宮球場は、専ら大学野球に充てられていたのである。そこで同年、正力松太郎や小林一三らの出資で、株式会社後楽園スタヂアム(現、株式会社東京ドーム)が設立された。一三は同社創立発起人に名を連ね、12月には正力松太郎とともに相談役に推挙される。また取締役会長と専務取締役には、一三の異母弟であった田邊七六・田邊宗英が就いた。そして1937年、後楽園球場が開場し、東京でのゲームの拠点となる。これより読売ジャイアンツは、実質的な本拠地として後楽園球場を使っている。  さらに1938年には、小林一三が全株式数の過半数を取得して、後楽園スタヂアムを東京宝塚劇場(現、東宝株式会社)の傘下に置く。取締役会長には渋沢秀雄、取締役社長には吉岡重三郎、専務取締役には秦豊吉など、東宝の重役が選任される。以降、野球のオフシーズン時期の球場の利用などに、サーカスなど多角的なイベント経営力が活かされた。グラウンドの壁広告から収入の増大が計られ、1940年に開場した内野スタンド下の映画館「スポーツ・シネマ」も人気を呼んだ。  戦後1949年、持株会社整理委員会の指令により、東宝は後楽園スタヂアムの株式を売却し、同社の経営から撤退した。正力松太郎は1951年から取締役として参画しているが、小林一三は、同族や配下の者に仕事を委ね、自身は役員に名を連ねる事はなかった。

むらかみ みのる

村上 實[1906-1999]

村上 實

元阪急球団代表。

  村上實は、慶應義塾大学野球部マネージャーを経て、阪神急行電鉄に入社。1935年、職業野球団を創れとの小林一三からの指示を受け、大学野球での経歴を活かし、阪急軍の創設に尽力する。1936年、名称「大阪阪急野球協会」、球団名「阪急」としてプロ野球リーグに参入。村上は専務理事に就いた。  写真は、「金鯱軍対阪急軍野球試合」の契約書。1936年3月20日から宝塚球場で行う、阪急職業野球団による野球試合第一戦の開催を決める覚書である。「金鯱軍(きんこぐん)」は、1936年~1940年の5年間活動した「名古屋野球倶楽部」の事。名古屋新聞社が設立した職業野球団で、「名古屋城の金鯱」をチーム名とした。書面の左下には、「金鯱軍マネージャー山口勲」と「阪急軍マネージャー村上実」との署名が見える。  当時の新聞広告では、「阪急職業野球団第一戦 是非御後援を!」と呼びかけ、「打撃戦か、守備戦か 虚々実々、予断を許さず」と謳っている。また阪急軍を「宮武(三郎)を首将に山下(実)以下新鋭腕を撫す」と、金鯱軍を「平川(喜代美)、内藤(幸三)、島(秀之助)以下遠征の意気高き」と紹介している。この後、村上は、1937年の秋季シーズンで監督を務め、1939年にも2度目の監督に就任した。  戦後1947年、球団のニックネーム導入に際し、阪急軍は「阪急ベアーズ」に改称。しかしすぐに、球団名を「阪急ブレーブス」、正式名称を「阪急野球倶楽部」と改称した。村上は球団代表に就任し、チーム編成や選手契約など、25年間にわたり、球団の経営面に功績を遺した。  また1950年に日本野球連盟が2リーグ制に分かれた時には、パ・リーグの理事長を務める。そしてその2リーグ制や、フランチャイズ制、コミッショナー制など、球界全般に及ぶ現行制度の確立に貢献し、プロ野球の発展に寄与した。これにより、1995年に、特別表彰として野球殿堂入りを果たしている。

みやけ だいすけ

三宅 大輔[1893-1978]

三宅 大輔

野球選手、巨人軍・阪急軍の初代監督。1969年、特別表彰で野球殿堂入り。

  三宅大輔は、慶應義塾大学で名捕手として聞こえ、卒業後はクラブチームの東京倶楽部などで活躍した。1927年、東京倶楽部で第1回全日本都市対抗野球大会に出場し、大会第1号となる本塁打を放っている。1934年、日米親善野球の日本選抜チームの選手を中心に、読売新聞の「大日本東京野球倶楽部」(現、読売ジャイアンツ)が結成される。三宅は、初代監督に就任し、翌年の第1回アメリカ遠征で指揮を執った。  その1935年には、阪神電鉄の「大阪タイガース」(現、阪神タイガース)が設立される。当時、アメリカを旅行中であった小林一三に電報で知らせが届くと、すぐさま一三は球団の創設を指示した。1936年「大阪阪急野球協会」(後の阪急ブレーブス)が誕生する。「阪急軍」と呼ばれて、企業名を冠した初のプロ野球チームとなった。阪急軍の結成に当たり、一三が慶應義塾出身だった事もあり、宮武三郎、山下実ら、慶應のスター選手が入団する。そして、初代監督にも慶應OBの三宅大輔が招かれた。  その年、小林一三の命によって三宅は、堀尾文人を通して、米国シカゴのリグレー・フィールド(Wrigley Field)の青写真を取り寄せる。この堀尾は、日本プロ野球の外国人選手(外国籍選手)第1号として、巨人軍・阪急軍などに三宅とともに在籍した「ジミー堀尾」である。そして、そうしたアメリカの球場を参考に設計されたのが、阪急西宮球場。日本初の鉄傘付き2層式スタンドや全面天然芝のグラウンドなど、最新・最高の設備を持つ球場として築造された。わずか5ヶ月の突貫工事で完成し、1937年に開場。プロ野球リーグ戦の西日本に於ける拠点の一つとして、以来賑わった。

みやたけ さぶろう

宮武 三郎[1907-1956]

宮武 三郎

プロ野球選手、阪急軍初代主将。1965年、野球殿堂入り。

  宮武三郎は、早くも高松商業学校(現、香川県立高松商業高等学校)時代、1925年に全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)で全国制覇を達成した。  慶應義塾大学に進み、1927年の東京六大学野球春季リーグの開幕戦(対東京帝大)で先発デビュー。6安打完封で、1年生投手の開幕戦勝利として話題を呼んだ。また、打っては3安打、神宮球場の柵越え本塁打は第1号として記録される。以後、投打にわたって神宮の花形として活躍し、投手としての成績は通算38勝6敗、勝率0.864は20勝以上した東京六大学投手の中で最高。打者としては、今より広かった神宮球場において、通算本塁打数7本を残している。この記録は戦後になって長島茂雄が8本を打ち、ようやく破られた。東京六大学野球が全盛であった昭和初期、慶大チームメートの水原茂や山下実らとともに、スター選手となる。中でも宮武の豪快さは「慶應の超ド級」と呼ばれて人気を集めた。  卒業後は、1931年にクラブチーム「東京倶楽部」に入り、都市対抗野球大会で3回もの優勝を果たす。そして1936年、結成された阪急軍(後の阪急ブレーブス)に入団。慶應出身だった小林一三は、慶應の二大巨砲、宮武と山下とを同チームに獲得する。宮武は、背番号1を着けて阪急軍の初代主将を務め、投打に活躍。入団1年目には打率.355をマークし、1937年には西宮球場で初の本塁打を放つ。そして1938年には、投手として9勝を挙げている。しかし、既に30代を迎えていた宮武は、現役を退き、3年で阪急軍を去った。  野球殿堂では「打力の人として東京六大学黄金時代に慶応の全盛を誇り、神宮球場場外本塁打を放つ。剛速球をもって投手をつとめ、卒業後東京クラブ、阪急の主力打者であった。」と顕彰する。戦前最高の天才選手であったと、今なお評される。

こうの あつし

河野 安通志[1884-1946]

河野 安通志

日本初のプロ野球チーム創設者。1960年、特別表彰で野球殿堂入り。

  河野安通志は、早稲田大学野球部の選手として早慶戦などで活躍し、卒業後も同部の監督などを務めていた。1915年、全国中等学校優勝野球大会の第1回大会が豊中運動場で開かれると、そのグラウンドに、冬期練習として河野も早大のチームを引きつれてやって来る。  既に面識のあった小林一三がグラウンドに現れ、「河野君、アメリカでは職業野球というのが非常に盛なようだが、日本にも職業野球を起したらどうかネ」と切り出した(河野安通志「我職業野球の発案者 小林一三氏」『実業之日本』1937年5月号)。河野が「時期尚早と思いますが、小林さんには何か考えがありますか」と返すと、「大学を卒業した選手を二年間位絶対保証をして相当の高給で抱え専心に野球をやらせる。二年後に野球がいやになって他へ転ぜんとするものがあっても、その間に多少の貯えも出来、二年位ならば、その後いくらでも活躍の天地はひらけると思う」と、一三は現実的なプランを示して見せた。  その後、1920年、河野らは、東京芝浦で日本初のプロ野球チーム「日本運動協会」を結成。ところが1923年の関東大震災で、芝浦の球場が使えなくなってしまう。その時「阪急で全部引き受けようじゃないか、君が監督で宝塚にやって来ないか」と一三から電報が届いたという。小林一三の援助によって、1924年、本拠地を宝塚野球場 へ移転して「宝塚運動協会」が再結成された。  宝塚運動協会は、時期尚早のため、その後解散となったが、河野安通志は「小林氏が職業野球の発達のために尽くした功績は実に大なるものがある。」と述べる。1936年、プロ野球リーグが創設されると、河野は「後楽園イーグルス」を設立し、理想の球団を目指した。「それについても小林さんが非常に力をかして下さった。」

むらやま りょうへい

村山 龍平[1850-1933]

村山 龍平

朝日新聞の経営者(社主・社長)。

  小林一三は、スポーツイベントのための総合施設として、現在の大阪府豊中市に「豊中運動場」を造る。1913年「日米野球戦、慶応義塾大学対米国スタンフォード大学」で開場し、同年には陸上選手権大会なども開催されて人気を博した。  1915年には、今日の全国高等学校野球選手権大会「夏の甲子園」の前身となる「全国中等学校優勝野球大会」の開催を大阪朝日新聞社に提案し、その夏、第1回大会が開かれた。時に朝日新聞の社長を務めていた村山龍平は、大会費用の援助を快諾したという。開会日には、羽織袴姿の村山がマウンドに立ち、自ら第一球を投じている。当然、一三も同じ会場の何処かで、始球式の様子を微笑ましく見つめていたに違いない。翌年には第2回大会が開かれる。  この1916年、ある俳句の会で村山龍平と小林一三とが同席する。この時、一三は村山が詠んだ俳句の短冊をもらい受け、後から掛け軸に仕立て直し、手許に置いておいたようだ。句は「老樹にも 花さかせたる 梅見哉 香雪」落款の「香雪」は、村山が名乗った号の一つである。  この掛け軸の表具の天地には、新聞から切り抜いた「梅」に関する記事がコラージュのように貼り付けられている。一三による特別な注文であろう。共に趣味とした茶の湯の席に、いつか村山を招いて披露しようという狙いがあったようだ。本品からは、この頃、小林一三が村山龍平に対して敬意を払っていた様が伝わってくる。  しかしながら、人気を呼んだ「全国中等学校優勝野球大会」は、豊中運動場では多数の観客を収容しきれなかった事などから、1917年の第3回大会より西宮の鳴尾球場に会場が移された。1924年、第10回大会から甲子園で行われる。豊中運動場の跡地には「高校野球発祥の地記念公園」が整備され、往時を伝えている。

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