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経済

まつなが やすざえもん

松永 安左エ門[1875 - 1971]

松永 安左エ門

「電力の鬼」といわれた財界人。

  1898年、慶應義塾大学を中退し、福澤桃介の紹介で日本銀行に入行。その後1901年、松永安左エ門は、福澤と共同で神戸・大阪で材木商や石炭業を営んだ。鉄道事業に取りかかっていた慶應の先輩、小林一三と係わるのもこの頃からである。後、小林一三が東京電灯、松永安左エ門が東邦電力を率いて、二人は電力業界で活躍する。しかし1939年には、全ての電力を管理する日本発送電株式会社が国策企業として設立され、一三は理事となるが、松永は逆に一時実業界を退いた。  戦後、GHQ主導で経済の民主化が進められ、1949年、松永が電気事業再編成実現の責任者に抜擢される。1951年、9電力体制(沖縄を入れ10社)がスタートした。小林は電力を様々な企業が拠って立つエネルギー資本と捉え、国策でこれを整備しようと考えた。けれども松永による各社協調による電力ネットワーク作りの構想が、戦後の合理的・民主主義的な政策に合致した。  こうした正反対の考え方を譲らない二人であったが、また同調する一面も窺える(「商売の神さま 小林一三氏 電気の鬼 松永安左衞門氏 新春自由放談」『大阪新聞』1952年1月1日)。事業の資金調達方法についてを問われ、小林「外国から金を入れようというなら今迄の借金を先ず返さなければ駄目ですよ、今迄の借金をそのままにして金を借りるということは無理ですよ、松永君が構想しているように努力を払って計画を立てて、ちゃんとしたものがなければ駄目ですよ、返すメドがなくてはね…」、松永「小林君のいうような昔の借金の返済のメドを立て、新らしい外貨もはじめから返済計画をちやんと立てて行く「政府が保証すれば借りられるから公社を作ろう」なんて、民間人の苦労を無視した議論だ」  福澤諭吉仕込みの「独立不羈」が、小林と松永との共通点である。

たかさき たつのすけ

高碕 達之助[1885 - 1964]

高碕 達之助

電源開発初代総裁、通商産業大臣、初代経済企画庁長官などを歴任。

  1916年、5年間の米国生活を終えて帰国した高碕達之助は、大阪で製缶会社を立ち上げようと、援助を求めて小林一三を訪ねた。一三は、その発起人に名を連ねる事とする。翌年、東洋製罐を創立すると、今度は大阪に居を落ち着けるべく高碕は、一三が手掛けていた豊中か池田の住宅の購入を申し込んだという。  ところが小林一三は、「君は存外馬鹿だね!君は長い間外国に住み、初めて大阪で仕事をするのには、大阪の空気を識らなければならない。それが、大阪の北郊に住み、大阪の北区の工場に通勤しているのでは、大阪が判るかね。君の仕事場が大阪の北なら、君の住居は南に置き、朝夕の通勤に大阪を識る位の頭がなくては、大阪では仕事が出来ないよ」と諭した(「小林一三さんを偲ぶ ─人生の灯台─」『小林一三翁の追想』)。「成る程よい注意である。」と気が付いた高碕達之助は住宅を南の阿倍野に置いて、朝晩電車に揺られて大阪の街を通い、その間も時間を有効に利用して仕事をやり遂げた。「それがどんなに私の仕事を益したかは計り知れぬものがあった。」  別の機会に小林一三は、「この男は必ずエラくなる、と自分も信じており、又人にも屡々話して来た」と述べている(「高碕達之助を裸にす/視野の広い勉強家」『実業之世界』1952年11月)。「高碕が東洋製罐を作る時の抱負を聞いて、海国日本の輸出物は水産物でなければならないこれこそ日本がドコからも材料を輸入せずにやれる貿易品であるという抱負を聞いて大いに感心したんであつた。」そして「こういうような世界的の仕事をするなど、高碕の右に出ずるものはあるまい。」と。

みつい たかやす

三井 高保[1850 - 1922]

三井 高保

三井銀行社長。男爵。

  三井室町家10代目当主となり、三井銀行総長に就任。副長に中上川彦次郎を登用して、経営改善に当たる。以来、同行社長として1920年まで在任し、総帥としてその発展に努めた。また表千家流の茶人でもあり、号は「華精」を名乗った。  1893年、20歳の小林一三は、三井銀行に入行すると同時に、本店秘書課の重役付き給仕として配属された。新入の若い社員にとって、三井という大会社の社長や重役など、エライ上役の人達に直接に知られるという機会を得られたのは、実に幸運であったと一三は振り返っている。  1904年には、銀行社長の三井高保から「膽大小心」と書かれた額を授かった。「これは直接私がうかゞつた話ではないが『小林にはこの膽大小心といふ心がけが大切である。』と言はれたといふ事を、男爵家へ出入してゐる同僚の一人から聞いた時、自分は初めて、膽大小心といふ意義を考へさせられた。」(「蘆葉の雫(八)三井華精男の歌」『汎究美術』53)「私自身も、朝夕寝起する八畳の居聞に掲げてあつた此額を見上げつゝ、これは自分に対しては誠に適切な文句であると、深く、膽大小心を肝に銘じた事を忘れ得ないのである。」  1907年、箕面有馬電気軌道を設立し、「池田の蜜柑畑に、初めて家を建て、お池のほとりに離れ家とお茶室を造つた時、此一棟を大小庵と名附けやうと思つて、膽大小心の額の因縁から華精翁の御揮毫をお願ひしたところ、お快よくお喜び下すつて、早速に頂戴したのである。」この「大小庵」の扁額を掲げた茶室は、後、池田文庫に移されて、今も茶会などに利用されている。

たけなか とうえもん

竹中 藤右衛門(14代)[1877-1965]

竹中 藤右衛門(14代)

竹中工務店創立者。

  元来、尾張名古屋で社寺の造営に携わっていた竹中家の14代藤右衛門、竹中練一。1897年、小林一三が三井銀行の名古屋支店に転勤した縁から、二人は出会う。その後、藤右衛門は神戸に進出し、1909年に合名会社竹中工務店を設立。そして一三が大阪で事業を展開すると、藤右衛門が一手に建設関係の仕事を請け負った。阪急電車の高架橋を始め、宝塚大劇場・梅田阪急ビル(阪急百貨店)・宝塚ホテル・西宮球場・東京宝塚劇場・第一ホテル…。  その宝塚大劇場が1935年1月25日、火災に見舞われる。藤右衛門は、「この際、小林さんは焼煙尚くすぶる中に机を持ち出され、その机に『四月一日開場』と書いた大きな紙を貼って、断乎再建の決意を示されました。」と振り返る(「小林大人の思い出 ─二ヵ月で完成した宝塚大劇場─」『小林一三翁の追想』)。「私はこの牢固たる御決心に対し、即時、昼夜三交代の態勢をととのえ、全く昼夜兼行で四月一日の開場に間に合せた次第であります。従来二交代はありますが、この様な終始三交代は滅多にございません。本来六ヵ月を要するこの復興工事がわすが二ヵ月で完成し、まさに不可能を可能にされましたのも、小林さんの凜乎たる固き御決意によるものと申して過言ではなく、事業家としての小林さんの面目が躍如として窺われるのであります。」  こうした誠意ある仕事が、小林一三の信頼を勝ち得たのであろう。以降も阪急や東宝関連ばかりではなく、特に一三が戦災復興院総裁に任ぜられた際などには、竹中藤右衛門が建設業界のまとめ役となって意を尽くしてくれたようである。  小林一三の旧邸「雅俗山荘」(写真)も、竹中工務店によって1937年竣工された。設計は同社の小林利助(後に東京支店設計部長)。現在は、小林一三記念館として、一三を慕う多くのお客様をお迎えしている。

しぶさわ ひでお

渋沢 秀雄[1892- 1984]

渋沢 秀雄

初代東宝会長

  渋沢秀雄は、近代日本の大実業家、渋沢栄一の四男。父栄一が設立した田園都市株式会社に、1920年、取締役として入社。その田園都市株式会社の経営を小林一三が指導する事となり、「これが小林先生とのご縁のはじまりだった。それから私はよく宝塚へ洋行して、先生から親しく土地経営の臨床講義をうけた。」(「鋭くて親切な先覚者」『小林一三翁の追想』)  「そのころの一日、先生は阪急沿線の住宅地を案内しながら、何かの拍子にこういわれた。「君、えらい人ってのは、つまり世の中に対して貸勘定の多い人ってことだね。」当時私の知っていた実業界の先輩とちがって、先生は意見も言動も青年のように率直で新鮮だった。そういえば小林先生は、いろいろな事業の面でも、大衆に楽しさ、便利さの貸勘定をのこしていった人かもしれない。」そして田園都市株式会社は、田園調布や洗足田園都市の宅地を開発し、鉄道敷設や電力供給を行った。1928年、渋沢秀雄は、後継となる目黒蒲田電鉄株式会社(後の東急)の監査役に就く。  その後、小林一三が東京宝塚劇場の開場に取り掛かると、「ある日小林先生から電話がかかり、私に東宝の役員になれというお話。」けれども渋沢秀雄は、「あまり事業欲のない私は、ヒラの役員ならならせていただきますが、仕事をする役員ならごめんください、と答えた。このわがままで勿体ない返事に小林先生もムッとされたらしく、ご機嫌のわるい声といっしょに電話は切れた。」  しかしそれでも、1937年に東宝映画の監査役、さらに1938年には東京宝塚劇場の監査役に任ぜられている。「仕事に対する熱も少なく、一向経営の才もない私を、小林先生はその後もヒイキ強く引き立ててくださった。」1943年、東京宝塚劇場と東宝映画とが合併し、東宝株式会社が設立すると、小林一三は渋沢秀雄をその取締役会長に挙げた。  戦後は、GHQによる公職追放のために東宝を辞し、文化人として趣味の世界に生きる。写真は、渋沢秀雄の手に成る油画「夜の山茶花」。

たかはし しんぞう

高橋 信三[1901-1980]

高橋 信三

毎日放送(MBS)元代表取締役社長・会長。

  毎日新聞社で副主筆等を務めた後、「新日本放送(NJB)」を設立。1950年、大阪商工会議所会頭を務めた関西財界の長老、杉道助を初代社長に据え、高橋信三は常務取締役に就任する。梅田阪急ビル(現・阪急百貨店うめだ本店)屋上に本社及び演奏所を建設し、日本初の民間放送として試験電波を発射。翌1951年から、ラジオ本放送(JOOR)を開始した。  新日本放送の経営責任を負った高橋信三は、助言を求めて小林一三の下を訪れた。その時一三に、「時に商業放送なんて採算がとれるのかい、勿論私は、採算がとれようが、とれなかろうが、民間人の手で放送事業を経営することは大賛成だ。きくところによれば、新らしい会社は、阪急百貨店の屋上に小つぽけな建物を建ててやるそうだが、そんなケチな考え方をすてて、何故この機会にNHKを解散させて、日本中の放送事業を民営にしようとしないのか」といわれたと、高橋は振り返っている。(「偉大なる小林一三翁を偲ぶ/小林さんを憶う」『HOT』1957年3月)  そして「新日本放送が開業して間もない頃、小林さんがヒヨコリと阪急百貨店の屋上の私の部屋へやつて来られたことがあつた。受付の女の子が、小林さんの顔を知らないで“白髪の上品なお翁さんが、高橋君はいるかといつて来てられてます”といつて知らせにきた」続けて「“今、下の百貨店の清水君のところへ行つたんだが、時間が余つたので、放送の仕事てどんなものだか見にきた”といわれて、主として、設備や、電気機械類などを見て回られたのち、“あの設備や機械など全部で、どの位金のかかるものかネ”と、やはり経営という点に興味をもたれていたことが察せられた。」一三も放送事業に高い関心を寄せていたのだ。  1958年、高橋信三は、新日本放送を「毎日放送(MBS)」に改め、次の年、テレビの本放送を開始した。

おかはし しげる

岡橋 林[1883-1959]

岡橋 林

元住友銀行社長。

  住友銀行を皮切りに住友各社の重役を歴任した岡橋林は、関西経済界の顔役として小林一三と肩を並べた。第二次世界大戦後、大阪の経済復興についても、二人は様々に意見を交換する機会を持ったようだ。  1953年、岡橋は、第5次吉田内閣の経済最高顧問となる。この年、大阪商工会議所の75周年を記念する座談会が開かれ、岡橋や小林も参加した。その内容は、大阪商工会議所機関誌『チェンバー』の記事「大阪経済の今昔を語る」に知られる。近代の大阪から始まった話題は、座談会当時の社会の様相にまで及んだ。1950年代、社用にかこつけて会社の経費で飲食や遊興をする「社用族」が目に付いたという。  統制ある組織で知られた住友の岡橋林が、「ただこれの心がまえがどこにあるかということで社用族に対して是認するか、非難するかという問題がきまると思う。少くとも世間大衆に悪い影響を与えるようなことはだね─自粛をしてもらうことであればだね社用族というものを、声を高くしてとがめるほどの必要はないと、こう思っているんだがね。」というのも尤もだ。  ところが小林一三は、「私はまあ社用族と限らずね今の日本人の働く人たちにもつと希望を持たせる立場がなければ……」と独自の意見を持つ。「そこで行政整理とか、企業整備ということもいいには違いないけれども、それよりも先に、私は人に仕事を与える。これが国策でなければならぬと思うのだが。」と。そして「一つ、日本に残されておるものは官業ですね。政府の官業全体を、みんな民業に移す、またそうすれば幾らでも仕事が興るものだと思うんですがね。」と卓見を述べた。  写真は、同じ1953年、関西経済連合会が主催した長寿者座談会で同席する様子。左が岡橋林。お互いに信頼を置く、打ち解けた仲であった事が知られる。

なかむた きへえ

中牟田 喜兵衛[1891-1980]

中牟田 喜兵衛

株式会社岩田屋(現、株式会社岩田屋三越)設立者。

  2代目、中牟田喜兵衛は、父が創業した岩田屋呉服店から、大衆向けの商売への進出を目指し、本格的な百貨店経営への転換を計っていた。その中牟田に手を差し伸べたのが、九州電灯鉄道を東邦電力へと発展させ、電力業界で小林一三と肩を並べていた松永安左エ門であった。松永は、福岡を離れた後も、九州鉄道(九鉄、西日本鉄道の前身)の経営に注力していた。天神地区に構えていた九鉄福岡駅に、百貨店を併設するよう、中牟田に持ち掛ける。  しかし、当時、福岡の商業の中心は博多地区の繁華街であり、天神地区は九鉄マーケットや松屋百貨店があったものの、未だ発展途上の地であった。そこで松永は、日本初のターミナル百貨店、阪急百貨店を梅田で成功させていた、小林一三を中牟田に紹介する。一三は、鉄道とデパートとの利用客の相乗的な増加を生む、ターミナル百貨店の将来性を中牟田に説いた。更に開業に向けて、百貨店経営を伝授するなどのサポートを約束した。また、阪急百貨店を建設した竹中工務店を紹介し、建築中の岩田屋百貨店を一三自ら視察している。仕入れや経理などのノウハウを教示し、創業時の従業員研修も阪急百貨店が受け入れた。  1936年10月、九州初のターミナル百貨店「岩田屋百貨店」が開業。地上8階・地下1階、延べ床面積4、500坪の大型店舗が現れた。建物に九鉄の乗り場案内を掲示し、1階に乗降客の出入口や通路を設置するなど、鉄道駅と直結した利便性を打ち出した。当時の福岡市の人口は29万人だったが、開業初日に10万人を超える買い物客が押し寄せたと伝える。一三は開店した岩田屋を訪れ、祝辞で、東横百貨店(後の東急百貨店)・阪急百貨店・岩田屋の連携による、ターミナル百貨店の発展を述べたという。

くどう ともえ

工藤 友恵[1902-1972]

工藤 友恵

大阪建物社長、関西経済連合会副会長。

  2015年、大阪の堂島浜に竣工した「新ダイビル」は、1958年の旧「新ダイビル」を建て替えたもの。旧「新ダイビル」は、モダニズム建築家、村野藤吾の代表作の一つであった。白色タイルの優美な容姿に、横長で水平的な連窓の独特のデザイン。モータリゼーション時代の到来を見越して地下大駐車場を設けた、地上9階・地下4階建の実質的な設計。旧「新ダイビル」は、戦後の復興から高度経済成長を遂げる大阪で、新たな可能性を示すオフィスビルの模範となった。  また、他に例の無い大規模な「屋上樹苑」には、1000坪の庭園に約4000本の樹木が植えられ、ビル緑化の先がけともなった。旧館を建てた大阪建物株式会社(現、ダイビル株式会社)社長、工藤友惠は、日本野鳥の会の創立者である中西悟堂の進言から、屋上樹苑に鳥の水浴び場を設けたという。  関経連の副会長をも務めた実務派の工藤友惠が、小林一三と対談した記事「小林一三氏に住宅問題を聞く」が、関西電力株式会社の広報誌『ひらけゆく電気』(1954年2月)に見える。戦災復興院総裁を務めた際、「東京のごときは、その当時築地だとか隅田川両岸の焼野原を、これは立派な住宅地なんです。これはもう何といいますか高層建築で、ああいうところへ住宅の根拠を置いて………今のように周辺から一時間もかかって電車に乗って来るというようなことよりも、その金で築地や隅田川の両岸を立派な高層建築の住宅地にしたらどうか」と意見した事を、一三は語っている。  この対談は、1953年10月。写真もその時のもの。かつて自ら郊外住宅を売り出した小林一三が、戦後の復興に際しては都心の住宅開発を呼びかける。そうしたフレキシブルな価値の創造に、工藤友惠も大いに刺激を受けたであろう。その未来への洞察と深慮が、旧「新ダイビル」となって現れたのではないか。

いうえ としお

井植 歳男[1902-1969]

井植 歳男

三洋電機株式会社の創業者。

  1920年代、東京電灯の経営改革に携わった小林一三は、電力事業の将来に確信を持った。「日本なんて資源のない国で、電力は資源なんですから、もうかる、もうからんじやないです。…つまりいくら金をかけても、資源を作るのですから、いくらでも事業が起つて来る。」(「社長対談 社長の回転椅子」第十八回、『サンヨーコンパス』、1956年9月 )この話を聞いていたのは、三洋電機株式会社の創業者、井植歳男である。その大正期から昭和初期にかけては電気が身近なものとなり、松下幸之助・井植歳男・早川徳次ら「御三家」によって、家電製品が生活の中に広まっていった。立志伝中の人物として知られる井植もまた、電気の未来に大きな夢を抱いていた事であろう。一三の言葉は心強く、井植の胸に響いたはずだ。  特に洗濯機に注目し、一時、国内市場シェアのトップに躍り出た「サンヨー」。事業拡大を実践した井植歳男の経営感覚には、生活者の視点も備わっていた。上記社内誌での対談で、井植は、一三の仕事の秘訣を見抜いている。「小林さんのやつておられるテレビ喫茶のメニユーの置き方について、お話しがあつたが、この最大のものと、最小のものとへの関心、つまり、営業政策というような大きな問題と、メニユーの置き方というような小さい仕事、の両極端がわかるという事実、これが今日の小林さんの成功をもたらしたのだろう。非常に小さなことと、大きな大局的な方針とまちがいなく進めていく事が、成功への一つの道である。」それは取りも直さず、井植自身が肌に感じていた経営の勘所であったのだろう。  写真は、1955年、一三の自邸で行われた「産業新潮」誌主催の座談会から。

むとう いとじ

武藤 絲治[1903-1970]

武藤 絲治

鐘淵紡績(後のカネボウ)社長・会長。

  鐘淵紡績(後のカネボウ)社長、武藤山治の次男として生まれた武藤絲治は、慶應義塾で学んだ後、留学を経て、鐘紡の仕事に携わる。戦後の1947年、社長に就任。しかし当時の鐘紡は、敗戦や空襲で海外資産や国内外の工場を失い、また多方面にわたった事業の整理などの課題を抱え、再建に努める絲治には苦しい状態が続いた。一方、戦後、阪急電鉄から独立した阪急百貨店は順調に業績を伸ばし、社長の清水雅は、さらに東京への進出を考えていた。東京での開店候補地を様々検討したが、小林一三の許可が出るような物件になかなか巡り会えない。鐘紡が東京事務所として1939年に建てたビルを、1953年に阪急が買い受けて百貨店としたのには、それぞれ経営の事情があった。  1953年、武藤絲治から小林一三に、国鉄(現、JR東日本)大井町駅前に鐘紡が所有するビルを使用してはと提案があった。この頃の東京大井町(品川区)は空襲で荒廃し、鐘紡のビルも迷彩色が施されたまま、未だに戦後を色濃く残した状態だった。しかし大井町には国鉄大井町駅の他、東急大井町駅もあり、立地条件としては良かった。かつて小林一三も関わった東急沿線には住宅地が広がっていた事もあり、一三からも出店の許可が出た。ついに鐘紡からビルの譲渡を受けて、同年11月、白亜5階建の阪急百貨店東京大井店がオープンする。戦後における関西の百貨店として、初の東京進出を果たした。  これに先んじて、一三と絲治とは数度にわたる会談を重ねている。一三邸にも招き、茶の湯でもてなすなどして、互いに信頼を深めていた。1953年2月の一三の日記には、「武藤鐘紡社長来訪、大井工場売却の功労として弘法大師行状記を贈らる。」とある。絲治が表した謝意であった。もちろん一三は、この絵巻を私蔵する事はなく、この時構想していた池田文化会館の所蔵品として受け入れた。確かに現在も、逸翁美術館の所蔵品として大切に保管されている。

あべ みきし

阿部 美樹志[1883-1965]

阿部 美樹志

建築家、日本の鉄筋コンクリート工学の開祖。通称コンクリート博士。

  阿部美樹志は、札幌農学校を卒業し、鉄道院に奉職。一旦、留学し、アメリカ・ドイツで鉄筋コンクリート工学を研究。帰国早々、東京~万世橋間に、日本初の鉄筋コンクリート高架橋を建設した。この後、大阪市内の国鉄環状線や、南海・近鉄などの私鉄の高架線の設計を委嘱される。  1920年、鉄道院を辞めて阿部事務所を開設。この頃、セメント王といわれた浅野総一郎を介して小林一三と知り合ったという。以降、一三の懇意を受けて、梅田阪急ビルを始め阪急関係のビル、高架橋、劇場などの設計を一手に担う。1926年には、十三~梅田間の鉄道高架橋や旧阪急梅田駅。1929年から1936年にかけての阪急百貨店の増築。東京では、1934年に日比谷映画劇場、1935年に有楽座。そして1936年には阪急電鉄神戸高架橋と、阪急三宮駅に神戸阪急ビル。また1937年には、阪急西宮球場を設計した。  1936年、神戸線三宮乗り入れに現れたのが神戸阪急ビル。阪急三宮駅となった「高架乗降場」を核として、阪急百貨店の神戸支店となった東館、劇場・映画館が営まれた西館と、異なる3つの機能をまとめた構造物であった。しかも、ビルの東面には大阪梅田へと向かう軌道用に、半円形のトンネル状開口部が設けられ、ランドマークとなった36mの尖塔とともに「阪急電車が出てくる(吸い込まれる)城」といわれた。鉄道・百貨店・劇場、一三の夢が詰まった建物は、阪急会館と呼ばれて神戸っ子に親しまれた。  こうした実際的な成果から、阿部美樹志は、小林一三からの信頼厚く、戦後、一三の後を承けて戦災復興院(現、国土交通省)の第2代総裁を任される。その後も、建設院総務長官(建設事務次官)、特別調達庁長官など、要職を歴任した。

まつかた こうじろう

松方 幸次郎[1866-1950]

松方 幸次郎

川崎造船所社長、衆議院議員(日本進歩党)、美術収集家。

  父は明治時代、第4代・第6代内閣の総理大臣、松方正義。その三男、松方幸次郎は、1896年、川崎財閥創設者の川崎正蔵に要請されて、株式会社川崎造船所の初代社長となる。これを始めとして、神戸新聞の初代社長や様々な会社の役員を務め、神戸政財界の巨頭となった。  1907年10月、大阪商業会議所において、箕面有馬電気軌道株式会社(現、阪急電鉄株式会社)の創立総会が開催される。専務取締役に小林一三が選出され、取締役として井上保次郎、松方幸次郎、藤本清兵衛、志方勢七がそれぞれ選任された。以来、1915年の辞任に至るまで、同社の役員として、松方と一三とは席を並べていたのである。  川崎造船所の経営に当たった松方幸次郎は、1900年の金融恐慌以降、景気に左右されない分野への進出を模索した。そして1906年、鉄道車両の製造を決定する。1907年、鉄道車両の第1号車が南海鉄道(現、南海電気鉄道株式会社)に納入された。そして、箕面有馬電車が1910年の開通に備えて用意した「1型車両」(写真)1号~18号も、川崎造船所で造られた車両であった。その後、電車の車体が木造から安全性の高い鋼鉄製に切り替わり始め、1925年、内装まで鋼鉄製として日本で初めて製造した全鋼製車両が、阪急電車510型であった。川崎造船所の高い技術力が、阪急電車の創業を支えたのである。  因みに、「松方コレクション」として名高い松方幸次郎による美術品収集は、上記の1915年における役員辞任以降、ヨーロッパに滞在している間に成されたもの。第一次世界大戦で需要が高まった造船業に専念するとともに、著名な作品を買い集めた。

もとやま ひこいち

本山 彦一[1853-1932]

本山 彦一

大阪毎日新聞社長。

  本山彦一は、慶應義塾卒業後、福澤諭吉が主催した時事新報社で、中上川彦次郎の下、会計責任者を務めるなど、福澤から厚い信頼を受けた人物の一人であった。1886年に大阪の藤田伝三郎に認められ、藤田組支配人となる。1899年には、本山の下、藤田組によって岡山県児島湾干拓事業が進められ、1600町歩もの藤田農場が開発された。三井銀行に入行した小林一三が、大阪支店に赴任したのは1892年。本山の藤田組は、日清戦争の軍需などから隆盛を遂げ、三井銀行の大きな取引先となった。  その頃、藤田伝三郎はまた、大阪の財界人たちに呼びかけ、実業界の機関紙となっていた『大阪日報』を1888年『大阪毎日新聞』と改題して再興している。本山も、藤田組在職中の1889年から大阪毎日新聞の相談役となり、1898年に社長となった原敬とともに社務を分担した。そして1903年には本山が社長となり、約30年の永きにわたり、以降の毎日新聞社の発展を築いていった。  1911 年、本山が創設した大阪毎日新聞慈善団(現、毎日新聞社会事業団)は、近代日本の慈善事業の草分けに数えられる。その事業目的の一つ「他の慈善団体の事業援助」については、宝塚少女歌劇団も関わる事となる。慈善団の基金募集のために「慈善歌劇会」が催され、入場料として多くの基金を得ることができたという。「大阪毎日新聞主催事前巡回病院特別公演といふ名称によって、大阪帝国座に出演したところが大好評、爾来引つゞき毎年数回大阪、神戸、京都等へ出張公演が出来るやうに進歩発達し得たことは、本山先生、大阪毎日新聞の御好意と今日に於ても、私の感泣してお礼を申上ぐる次第であります。」と、1945年7月の日記に、一三は回顧している。

まえだ ひさきち

前田 久吉[1893-1986]

前田 久吉

産経新聞などの創業者 。

  1951年の欧米視察旅行記『私の見たアメリカ・ヨーロッパ』(要書房、1953年)に、小林一三は「テレビ時代」という小文を記している。アメリカで見たテレビの印象から「私は将来テレビが驚くべき発達を遂げるものと思っている。」と予見した。そして「今こそそのためにいろいろ準備しなければならぬ時である。」とのべている。実際、1952年には、関西でもABC、NJB(現、MBS)が共同名義でテレビ放送局の開設を免許申請し、1956年、西日本初の民間放送テレビ、大阪テレビOTV(現、ABCテレビ)が開局した。  産経新聞の前田久吉も、この頃「関西テレビジョン」の社名で免許を申請していたが、近畿圏民放テレビ第3局の開局を巡っては、京都新聞、神戸新聞、京都放送(KBS京都)、神戸放送(現、ラジオ関西)などが免許申請した「近畿テレビ放送」と、競願になってしまっていた。そこで、前田は小林一三に調整を依頼する。1958年、京阪神急行電鉄(現、阪急阪神ホールディングス)が資本に加わり、「大関西テレビ放送」の社名に一本化された。1958年、関西テレビ放送に社名を変更して、同年11月開局、本放送を開始する。  けれども、小林一三は、その前年に身罷っていた。そこで、関西テレビの初代社長となったのは、一三の三男、小林米三である。米三は、テレビの放送に二つの夢をのせた。一つは、阪急ブレーブスをテレビ放映し、もっとファンを増やす。もう一つは、宝塚歌劇をテレビ放送し、固定したお客さんだけに安住せず、観客層を広げるという願いがあった。そして、関西テレビの開局記念番組には、宝塚歌劇の天津乙女らによる「宝三番叟」が、梅田コマ劇場から中継されたのである。

しみず まさし

清水 雅[1901-1994]

清水 雅

阪急百貨店・阪急電鉄・東宝の社長・会長を歴任。

  1935年、小林一三は欧米視察旅行に出発した。アメリカからヨーロッパへと廻る一年間の船旅に随行したのが、清水雅と岡次郎との二人であった。清水は、慶應義塾大学卒業後、ヨーロッパ・アメリカに留学した経験を買われたのだろう。  けれども、小林一三の付き人として一年間寝食をともにするのは実に難儀な役目だった筈だ。「ドイツのダンスホールへ行った時、「お踊りになりませんか」とやって見たら「お前、踊って来い」と、ビールも飲まずに、黙ってじっと坐って居られる。」(清水雅「日々是夢」『小林一三翁の追想』)  一三に対し、色々と気を遣う。そうすると、一三から何倍にもなって注文が返ってくる。けれども、そんな遣り取りをこなしながら、合間合間には「席が何席あって、照明がどうなって、と、調査は相変わらずきびしいが、今考えて見ると、あのとき小林さんは、宝塚のダンスホールの事を考えていられたに違いない。」と、一三の着眼、発想、言説、行動などなど逐一を、肌身を以て感じ取っていた。何とか2人は大役を果たしたようだ。両人とも一三の眼鏡に適ったか、その後、一三の事業を受け継ぐ社会的ポストを与えられている。清水は戦後独立した阪急百貨店の初代社長となる。岡は東京電力で取締役を務める。  NHK連続テレビ小説『べっぴんさん』で伊武雅刀が演じていた「大急百貨店」社長のモデルとなったのが清水である。小林一三に付き添った外遊の間、アメリカ各都市やヨーロッパ諸国で、百貨店ばかりか様々な商店・飲食店を見て回った。清水はその経験を、戦後急激にアメリカナイズされた、消費社会のニーズに答えるべく、百貨店の売り場作りや宣伝戦略に活かしていったに違いない。

ごとう けいた

五島 慶太[1882-1959]

五島 慶太

東京急行電鉄(東急)の創業者。

  1918年、実業家の渋沢栄一らが理想的な住宅地「田園都市」の開発を目指し、田園都市株式会社を設立する。現在の東京都目黒区・品川区・大田区・世田谷区など45万坪を購入し、交通として荏原電気鉄道(後の目黒蒲田電鉄)を設立したが、なかなか経営が捗らない。そこで、大株主であった第一生命保険社長の矢野恒太が、小林一三に田園都市株式会社の指導を依頼した。  一三は、月一度上京し、同社の経営会議で意見したが、やはり実務を進めてくれる人物が欲しい。そこで、鉄道院出身で、自身でも武蔵電気鉄道(現、東急東横線)を開業しようとしていた五島慶太に参加を乞う。「どうも今の重役は僕の意見を実行する力が乏しいようであるから、君が一つ田園都市会社に入って僕のいう通り実行してくれないか」(五島慶太『七十年の人生』要書房、1953年)また、荏原鉄道をさきに敷設し、田園都市会社の45万坪の土地を売り、その利益で武蔵電鉄をやれば良いと説かれて、五島も了承した。  1922年、目黒蒲田電鉄株式会社を創立し、五島が専務取締役となる。目蒲線・大井町線・東横線が順次開通し、池上線も合併。関東大震災後の時期と重なって、玉川・調布方面の宅地には、都心からの人々が次々と移住した。その沿線に、多摩川園、田園テニス倶楽部、田園コロシアムなどのレジャー施設を造り、また1934年には渋谷のターミナルデパートとして東横百貨店を開業するなど、一三の「乗客は電車が創造する」手法を五島も活用した。  1936年、一三は目蒲電鉄・東横電鉄の取締役を辞任する。五島が両社の取締役社長に就任して、後の「大東急」を創る。「私は一に小林一三の智恵をかりた。まあ教えを受けたというかたちだ。彼は今太閤というくらいの人だから智恵はあった。結論はすぐつく。何を相談に行ってもなんでも小林のところに行けば、すぐ解決索をさずけてくれた。最近はそうでもないが、実業家になって以来三十年間というもの、何でも彼に相談した。」

ごう せいのすけ

郷 誠之助[1865-1942]

郷 誠之助

日本商工会議所会頭、東京電燈会長、東京株式取引所理事長などを歴任。

  日本初の電力会社、東京電燈株式会社(現、東京電力)は、数度の買収合併によって電力網を拡大した。けれども同時に過剰な発電設備を抱え込み、そこに関東大震災による被害も重なって、経営不振に陥っていた。同社に融資していた三井銀行も、こうした事態を看過できず、1927年、同行の池田成彬の取り成しで、郷誠之助と小林一三とに東京電燈の立て直しを依頼した。郷は、1922年、日本経済聯盟会の常務理事になるなど、当時の財界のまとめ役となっていた。  1928年、郷が社長となり、一三を副社長として、債務整理に取り組む一方、電力他社との激しい競争に生き残りを賭けて電力業界の再編を模索した。1930年には、郷が社長のまま会長を兼務して、業績回復の目途が立つと、1933年からは一三が東京電燈の社長となった。一三は会社の近代化に取りかかり、事務の合理化から事業の整理、顧客サービスの向上と、矢継ぎ早に指示を出した。  1936年、東京電燈の開業50周年記念式典に及び、この頃にはすっかり経営を立ち直らせていた。一定の再建を果たした郷誠之助は同社を退任、小林一三が会長を兼任する事となる。しかし一三は、ここで手綱を緩めず、次の課題である余剰電力への対策を推し進めていくのであった。

のむら とくしち、二代

野村 徳七[1878-1945]

野村 徳七

野村證券を始めとする野村グループの創業者。

  小林一三が、箕面有馬電気軌道の開業を目指し、創立事務に奔走していた頃の事。株式の払い込み金と三井物産の仲介による借入金とから、事業資金の調達を目論んでいた。ところが当時の株価の変動等から、資金繰りはなかなか思う通りに進まなかった。  こうした資金不足に対し、一三は、1910年7月に日本で初めての社債を発行し、資金調達を図る。後に野村證券を創業する野村徳七は、この時「大阪株式現物団」を率いて、社債200万円の全額引き受けを実行した。こうした野村らの動きも影響してか、この社債の売れ行きはたいへん好調であったようで、申し込みは200万円の公募を大きく上回って、売出開始後すぐに申込みを締め切る程であったという。開業した箕有電車については、市場の評価も良い方向に動き始めていた。  野村による社債の全額引き受けで、一三は低利の長期資金を得る事が叶った。安定した事業経営を行う資金的な基盤が築けた事を、一三はとても嬉しく思ったらしく、野村に対してはその恩義を感じていた。  その野村徳七は「得庵」と号して、数寄者としても名を馳せている。一三との交流は、ビジネスばかりではなく、茶の湯を通じても親しいものとなっていた。逸翁美術館には、野村得庵から時々に贈られた茶入や茶碗が数点遺り、得庵が染筆した書画も所蔵される。写真の扇子は、1940年、小林一三が商工大臣に任ぜられた記念に贈られたもの。野村得庵が筆を執って、金地の扇面に秋草を描いている。野村徳七もまた、一三に敬意を払っていた様子がうかがわれる。 (参考) 中村尚史『電鉄経営と不動産業』(東京大学、2007) 西村剛『鉄道産業のビジネスモデルに関する一考察 −小林一三の電鉄事業展開を事例として−』(尾道市立大学、2014)

おおたがき しろう

太田垣 士郎[1894-1964]

太田垣 士郎

京阪神急行電鉄(現、阪急阪神ホールディングス)社長、関西電力初代社長。

  京都帝国大学卒業後、日本信託銀行を経て、阪神急行電鉄に入り、小林一三の片腕として成長した太田垣士郎。「私が非常にいい体験をしたと思うのは、社員の一人々々が、会社の経営の全部を一わたり頭に入れていなければいけないということでした。つまり、小林さんは、常に事業と一体の人でしたから、社員にもそれを要求された訳で、例えば倉庫係だからと言って、運輸のことに就いて知らないとは言わせない。私が運輸係にいた頃、駅看板やなんかで小林さんが不審に思われることがあると、駅で突然質問される。「係が違うので分かりません」というような返事では絶対、許されない。だから、たとえ分からないにしろ、経営の全体にわたって関心を持たねばならず、従って愛社精神というものも自然と湧いてくる。」(「お小言の意味 ─怒り方・教え方─」『小林一三翁の追想』)  1951年、電力再編成によって九電力会社が誕生。関西電力の初代社長として、太田垣士郎に白羽の矢が立った。小林一三は「私は太田垣君を推挙することゝ腹をキメテ、阪急としては惜しむべきであるが、日本復興の最も必要事業である此新会社を育成せしむる国家的立場から賛成する」と、同年2月の日記に記している。その通り、関西経済発展の下支えとなる電力の供給に、太田垣が決断したのは世紀の難工事、黒部ダム、黒部川第四発電所の建設であった。その後も、関西電力社長・会長、関西経済連合会会長として関西財界をリードする人物となった。

なとり わさく

名取 和作[1872-1959]

名取 和作

富士電機製造会社(富士電機ホールディングス)初代社長。

  慶應義塾大学を卒業し、一時は理財科(経済学部)の教授ともなった名取和作は、後、実業の世界へと転進する。1908年、東京電燈株式会社(現、東京電力)に入社し、1923年には、富士電機製造株式会社をして初代社長となった。  電力網を拡大した東京電燈は、発電設備への過剰な投資に関東大震災の被害も重なって経営不振に陥ってしまった。同社に融資していた三井銀行の池田成彬の取り成しで、1927年、郷誠之助と小林一三とが取締役に就任する。1928年、郷が社長、一三が副社長となり、債務整理に着手した。けれども、社長の郷は豪放な人物に見えたが、その実とても数字に細かい人物であったようだ。それに不自由さを感じた一三は、副社長をやめると言い出した。  この時、仲裁に入ったのが、東邦電力の松永安左エ門、東京電燈取締役の河西豊太郎、そして当時鐘紡や東邦電力の重役となっていた名取和作の3人である。「この三人が三晩がかりで口説いて、小林の条件を入れて、東電をやめることを思い止まらせた。」(三宅晴輝『小林一三伝』日本財界人物伝全集 第五巻、東洋書館、1954年)。1933年からは一三が東京電燈の社長となって、会社の近代化に采配を振るった。  かつて慶應義塾の第1回留学生として渡米、コロンビア大学に学んだ名取。野球通になって帰国すると、大学教授とともに野球部長に就任した。メジャーリーグやアメリカの学生生活を塾生に伝える。一三も阪急軍(後の阪急ブレーブス)に、自身の母校慶應の出身選手を多数採用した。写真では、電力の議論ではなく、むしろ野球の話題に熱中しているのかも知れない。

とりい しんじろう

鳥井 信治郎[1879-1962]

鳥井 信治郎

サントリー(サントリーホールディングス株式会社)の創業者。

  小林一三の次女、春子は、鳥井信治郎の長男、鳥井吉太郎と結ばれた。ところが1940年、吉太郎死去の報が一三に届く。31歳の若さであった。時に一三は、第二次近衛内閣の商工大臣を拝命し、蘭印交渉に係わって遠くインドネシアの地にいた。旅行記の中では、我が娘、春子の事を想い、また、既に副社長にまでしていた息子を亡くした、信治郎を思い遣っている。  長男吉太郎の急逝により、サントリー社長2代目は、信治郎の次男である佐治敬三が継ぐ事となった。その後1949年、小林一三の日記には「鳥井家慶事。佐治(敬三)君がモト住友重役の大平賢作君の令嬢との結婚式が宝塚ホテルにて午後一時挙式、終つて夕方五時より披露の祝宴、中々盛大であった。」とある。結婚式が済み、披露宴が始まるまでの間、小林一三らは旧宝塚映画製作所を訪れた。戦局の悪化から1941年に閉鎖された撮影所は、戦後1948年から映画監督のマキノ正博(マキノ雅弘)が、映画製作プロダクション「シネマ・アーチスト・コーポレーション(Cinema Artist Corporation, CAC)」を主宰していた。時に『佐平次捕物控 紫頭巾』が撮影中で、写真では大河内伝次郎や阪東妻三郎、出演の女優達とともに、小林一三と鳥井信治郎とが並んで朗らかな様子である。  そして、3代目社長の鳥井信一郎は吉太郎と春子の子、4代目社長の佐治信忠は敬三の子。さらにそれぞれのひ孫の世代も、現在のサントリーの経営に参加して、一族でブランドを守っている。小林一三も鳥井家の孫達としばしば行楽を共にし、その成長を楽しみとしていた。

まつした こうのすけ

松下 幸之助[1894 - 1989]

松下 幸之助

松下電器産業(現、パナソニック株式会社)創業者。

  「経営の神様」と呼ばれ、現代を築いた実業家としてしばしば小林一三と肩を並べる松下幸之助であるが、実のところ、親子ほども年が違う。その新進気鋭の松下幸之助に、茶道を勧めたのも一三であったという。  1939年秋、兵庫県西宮市に松下幸之助の自邸が竣工する。「光雲荘」と名づけられた邸宅は、木造2階建て、延べ300坪、天井・欄間・照明など随所に様々な趣向が凝らされた。新築披露に近衛文麿や小林一三らが招待され、裏千家家元が茶室開きを行った。松下氏自身も、習いたての茶の湯点前を披露している。  「家を見てまわった小林氏が言うには、「松下君、たいへんな家を建てたなあ。こんな広い家、あとで困るぞ。私がすでに体験してるんや。私の家はこの三分の一しかないが、それでも困ってるんや。」そのときは「そうですか。」と半信半疑だった幸之助でしたが、のちに、掃除や管理に相当の費用がかかり、気もつかわなければらないことから、"家というのは適切な大きさやなかったらいかん"と、しみじみと感じたといいます。」(佐藤悌二郎『松下幸之助の生き方』PHP研究所、2015年)  財界の先輩となった小林一三に対し、松下幸之助も深い信頼を寄せていた。1952年、松下幸之助が主催した新政治経済研究会に登壇した一三は「今日は第一回初めての会合なりといふ。集まる人、百人内外也。私の題は『食糧問題の解決とその研究』にて講演、質問応答が沢山あつたのは嬉しい。」と日記に記す。  また1957年新春のテレビ対談(NHK)では、84歳になる一三が、政治経済の推移から、国内ばかりでなく東南アジア全体の社会的繁栄を希望する遠大なヴィジョンを、松下に向けて語っている。

ひろおか きゅうえもんまさなお

広岡 久右衛門正直[1890 - 1978]

広岡 久右衛門正直

大阪の加島屋広岡家の10代目当主。

  久右衛門正直は、広岡家9代目の久右衛門正秋(きゅうえもんまさあき、1844 – 1909、大同生命初代社長)の娘、幾子と結婚して同家に入った。正秋の兄、広岡信五郎に嫁いだ広岡浅子(NHK連続テレビ小説 『あさが来た』 のヒロインのモデル)は伯母にあたる。  小林一三が創立した箕面有馬電気軌道は、当初、岩下清周が興した北浜銀行を取引銀行としていた。しかし1914年、北浜銀行が破綻することとなり、同行の所有する箕有電車の4万数千株を急遽買い戻さなければならなくなった。この時、力になったのが、広岡浅子の娘、亀子と結婚して同家に入り、加島銀行頭取・大同生命第2代社長として同家の事業を率いていた、広岡恵三(ひろおか けいぞう、1876 - 1953)であった。  既に広岡家10代目当主を継いでいた正直は、その経緯をしっかりと見つめていたのであろう。「小林さんは資金の調達に非常な苦労をされ、色々な方面から出来得るだけの借金をして北浜銀行の持株を買取ると同時に、御自分で買いきれない2万数千株を、広岡家経営の大同生命と日本生命保険会社等に買取って貰い、茲に始めて北浜銀行の束縛を免れ、以後小林さんが箕面有馬電軌を支配することが出来た」と回想している。  1925年10月、小林一三は広岡久右衛門正直に、広岡家代表として阪急電鉄の取締役への就任を招請した。正直は「昔を忘れぬ小林さんの御好意によるものと感謝して」就任を受諾する。そして1943年10月、京阪との合併により京阪神急行電鉄となるまでの戦前の激動期、阪急の経営を見守ったのである。

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