重要文化財に指定されている「佐竹本三十六歌仙絵」「大江山絵詞」「芦引絵」などの絵巻や、風俗画としても価値の高い「三十三間堂通矢図屏風」など、貴重な作品を多く収蔵しています。
際立っているのは、円山応挙や長沢芦雪といった円山四条派など近世絵画の作品群。とくに与謝蕪村や呉春の作品は充実しています。
藤原公任が選んだ三十六の歌人を描く歌仙絵の中で、成立が古く優れた作とされるのが「佐竹本三十六歌仙絵」。 絵は似絵の名手と謳われた藤原信実、詞書を後京極良経筆と伝える。江戸時代、秋田藩主の佐竹家が所蔵したことから「佐竹本」と呼ぶ。 もとは2巻の巻物であったが、大正8年(1919)、一歌仙ごとに切って、諸家に分蔵されることとなった。

源頼光が勅命によって配下の四天王とともに、諸神の加護を得て大江山の酒呑童子を退治する物語。 酒呑童子の居所を大江山とするものと、伊吹山とするものの二系統があり、本作は大江山系の最古の絵巻。 他の流布本に比べ、多くの相違点を持つ。2巻20図の絵、詞書ともに筆者は不明ながら、土佐派の絵師の手になるものとされる。

室町時代に流行した稚児物語を絵画化したもの。延暦寺の僧、玄怡が、奈良の得業の若君を見初めてより、その後の二人の別離と邂逅を描く。 若君の問いに「あしびきの」と僧が居所を答えたことが題の由来。室町末期に比叡山で五巻の「芦引絵」が作られ、それを模写させたと記録される。 しかしそれらの写しとなる本作のみが現存する。

本図は、顔面を中心に「紙形」という別紙が貼られた画稿、下絵である。 図の下方に「これがよくに申よし、きい(貴意)にて候」と記され、何枚かの下絵の中から選ばれた一図として、秀吉画像の根本となった。 その容貌は、伊達家本・高台寺本などの肖像画に活かされている。狩野永徳没後に狩野派を率いた、光信(1565~1608)の作とする。

東山の三十三間堂を中央に横一文字に描き、堂の西の縁側で行われる通矢の行事と、その見物客、周囲の花の下で遊楽に興じる人々を描く風俗図屏風である。 金地に濃彩で華やかだが、描線は柔らかく落ち着いた作風で、人物の表情に個性が見られる。 画面右上に、慶長5年(1600)建立の南大門が見られ、これに近い時期の作とされる。

与謝蕪村(1716~83)が、松尾芭蕉を慕って『奥の細道』を書写し、俳画と呼ばれる挿画を描き加えた画巻。 同種の作品は生涯に十数点制作されたらしく、そのうち画巻3点、屏風1点が現存する。本巻は最も遅い、安永8年(1779)、蕪村64歳の作。 書体の変化は数種に及び、俳画も最も多く14図を数えるなど、完成度が高い。

呉春(1752~1811)は、与謝蕪村から受け継いだ叙情性に、写生を基礎とする円山応挙の筆法を加え、瀟洒な画風を創りあげた。 粗い糸を藍染した平織の絹を背景に用い、月光の下、枝を大きく拡げた白梅が奥行を持って浮かび上がる。 画面の静けさからは、蕪村の辞世の句「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけり」が想い起こされる。
