茶の湯との出会いは、小林一三の美術コレクション形成に大きな影響を与えています。
そのはじまりは、三井銀行の大阪支店に勤務していた20代の頃。上司である支店長・高橋義雄(箒庵)は、茶人としても知られた人物でした。彼に命じられて抵当品の茶道具類を整理したことが、茶道に対する知識と興味を養うきっかけとなったようです。
鉄道業を起こした40代前半には表千家の生形貴一宗匠と出会い、本格的に茶人としての道を歩み始めます。一三は表千家流の茶を修め、実践しながら、徐々に独自の発想を取り入れていきました。大衆にも広く茶の湯を楽しんでもらうベきと説いた「大乗茶道」の提唱、椅子でお茶を楽しめる茶室の考案。西洋磁器を茶道具に見立てたり、洋食を懐石に取り入れたこともあります。このように新たな茶の湯を切り拓こうとする姿勢は、一三の終生変わらぬ心情でした。
伊賀の地は近江の信楽に接して、早くから陶器が焼かれた。 天正時代に筒井定次が織部好みの茶陶を焼かせ、次いで藤堂家がこの地の国守となって陶業を奨励したため、茶陶に優れたものが多い。 この花入は、力強いヘラ痕とともに、特徴である青緑色のビードロ釉の美しい流れが見所。また胴の裾には疋田文の押型が見られる。鴻池家伝来。

明代後期から末期にかけて、福建省南部の漳州窯で量産された青花磁器を、茶の湯で「呉州」(呉須)と呼ぶ。 本品は、日本からの注文で作られた型物水指の一つ。菱形の口をした水指の側面に、表裏に団扇形を枠取り、その中に馬を一頭、二頭と変化をつけて描く。 大名茶人として知られる松平不昧の旧蔵品で、『雲州蔵帳』にも所収される名品である。

色絵付けの華やかな作風で知られる野々村仁清(生没年不詳)だが、また本品のように「仁清信楽」と呼ばれる優美な茶陶も制作した。 非の打ち所が無い丸みの、端正な器形が見所である。口から器底にかけて一筋すっと掛けられた紬薬を、 浦の煙に見立てて「今朝は未だ浦の煙も一筋に霞の空にたちのぼりけり」の歌を添え、命銘の由縁としている。

中国華北の磁州窯で焼成された茶碗。内側に4本の横筋文と、見込みには花のような文様が描かれている。 逸翁はこの茶碗に「中宮寺」と銘をつけ、「残燈淡夢中宮寺 開窓三更天未明」の漢詩と、「涼しさや妹が白衣に墨ごろも」の俳句を箱に書き付けた。 この茶碗の清楚な趣から、尼寺として知られる奈良の中宮寺を連想したものか。

なだらかに下へ伸びた線から低く張り出した腰が安定感を与え、その底を大振りの高台ががっしりと受け止めている。 やや不整形な趣きながら、ずっしりとした存在感がある筒茶碗。高台ごと掛けられた黒釉は全体にカセており、正面に降り掛かった灰が鱗形の景色となる侘びた風情。 樂家初代長次郎(?~1589)の、最晩年の境地を示す作と見られる。

諸芸に通じた本阿弥光悦(1558~1637)は、作陶では樂家2代の常慶に手ほどきを受けた。 本碗は、丸い底から側面が真っ直ぐに立ち上がり、土は高台回りから口縁へ行くほど薄い。 釉の厚いところは黒の発色が殊に美しく、口縁部内外で釉を削り取った箇所もカセて見所。 正面に綴じ目をつけ、胴には三筋のヘラを入れる。光悦の美意識が発揮された一碗。

赤・青・黄に金彩を添えた色絵で、龍田川に散り重なって浮かぶ紅葉や波涛を、一枚一枚意匠を変えて描いている。 楓の葉の形にかたどられた器体と、鮮やかに色絵付された紅葉の文様が相乗効果を生み出して美しい。 乾山(1663~1743)の50代、兄である光琳の屋敷に近い二条丁字屋町へ移り、向付や鉢など懐石の器を多く手がけていた頃の作。
