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池田文庫の本棚放浪記【第26回】~笑い泣き人生~

 朝の連続テレビ小説は、現在、大阪・道頓堀が舞台。主人公たちは、新しい喜劇を目指して奮闘中です。これを機に、日本の喜劇の歴史に注目された方も多いのではないでしょうか。

 

 今回ご紹介するのは、はじめて喜劇なるものを舞台にかけ、喜劇王の名声をほしいままにした曾我廼家五郎の伝記小説、『笑い泣き人生』をご紹介したいと思います。

 著者は、実際に五郎と親交のあった長谷川幸延です。

 

 

 この小説では、さまざまな人との出会いと別れが描かれます。その中でも、出会いが人をつくるということを、とくに強く感じさせるのが、曾我廼家十郎の存在です。

 

 喜劇に身を投じるまで、曾我廼家五郎は中村珊之助という歌舞伎役者でした。

 その珊之助が福井座という一座にいたとき、年長の仲間に中村時代という役者がいました。これが後の曾我廼家十郎です。二人は手を取り合い、新たに喜劇でやっていくという夢をめざします。

 そして明治37(1904)年2月、道頓堀・浪花座で、曾我廼家十郎・五郎一座の旗揚げへとこぎつけます。しかし折悪しく、日露戦争が始まります。号外が飛び交い、芝居見物どころではないという空気のなか、客を呼ぶにはどうするか。知恵をしぼって書き上げたのが『無筆の号外』。これを興行の途中から舞台にかけました。

 洋食屋の開店チラシを、文字の読めない人が号外と勘違いして受け取ったことからはじまる騒動を描いたこの芝居は、時局にマッチしていたこと、皿を次々に割っていくという演出の痛快さが受け、大当たりします。

 

 失敗と成功を繰り返しながら、二人は一座を人気劇団へ育てていきます。小説は、盟友でありながらライバルでもある、二人の複雑な心境をも描きます。

 

 実際に五郎は、十郎の芸風をこう評しています。「一見作意のない、ごく自然のままのようでいて、ふらりと舞台に現われると、もうそれだけでユーモアが舞台にあふれ出て、なんとも言えぬ妙味を漂わせる」。*

 その天才的な芸に、五郎は声をふりしぼったり、身振りを滑稽にしたりと、どぎつい演技で対抗しました。十郎の存在こそが、喜劇王・曾我廼家五郎の芸風を生んだというわけです。小説では、義太夫を習ってわざと声をつぶす、五郎の壮絶なまでの芸への執念が描かれます。

 

 対極の芸をもつ人気者の二人が両輪となって劇団をうごかしていく。理想的な関係にみえますが、芸風の違いは、やがて目指す喜劇の違いとなってあらわれ、袂を分かつことになります。

 相手を気にかけながらも、再び手を組むことはよしとしない。人情と芸の道とのはざまで揺れる五郎の複雑な心情は、この物語の読みどころの一つになっています。

 

 

さて、池田文庫では、曾我廼家五郎に関する上演資料や本人の手による絵や色紙なども所蔵しています。

 上の冊子は過去の展示の際に発行したもので、そのコレクションの一部を紹介しています。曾我廼家五郎の人生に興味をもたれた方には、こちらも、ぜひ手にとっていただきたいと思います。

 

*曾我廼家五郎「喜劇一代男」(「日本の芸談5」(九芸出版 1978年) 所収)

 

(司書H)

 

池田文庫の本棚放浪記【第25回】~愛しのタカラヅカへ~

 寒い日が続きますね。今年の読初めにはどんな本を選びましたか?

 こちらのコーナーの本年最初の一冊は、宝塚歌劇に関する本『愛しのタカラヅカへ』(1984)を選ばせていただきました。

 

 この本の著者・香村菊雄氏は、戦前・戦後に宝塚歌劇団で活躍した脚本・演出家です。香村氏が手がけた宝塚歌劇の作品には、中国の古い物語を下敷きにしたものが多くみられるのが特色です。

 後には、同じく宝塚を拠点にしていた男女混成の劇団、宝塚新芸座の座付作者となり、数多くの作品の脚本や演出の仕事を行いました。

 

 香村氏は、幼い頃から宝塚へ足繁くかよった、宝塚歌劇の熱心なファンでもありました。なんと大正3(1914)年の第一回公演も観たというのですから、最古参のファンの一人ですね。

 幼少期に夢中になったお伽歌劇。青年期に外国映画へ傾いていた心を、ふたたび宝塚へと引きもどした『モン・パリ』(1927)。その『モン・パリ』も色あせて感じたという『パリゼット』(1930)の衝撃。協同演出者として関わった戦後の大ヒット作『虞美人』(1951)のことなど。

 宝塚歌劇を長く見てきた人が語る思い出は、そのまま宝塚歌劇の歩みと重なりますので、読書を楽しみながら、宝塚歌劇の歴史まで学べてしまう本です。

 

 ですが、この本の魅力は、なんといっても年表の行間を埋めてくれるような話、当時を生きた人にしかわからない実体験にもとづく逸話の数々ではないかと思います。

 

 その中で一つご紹介するならば、戦後、接収が解けて宝塚大劇場が返還されてからの復興期のところでしょうか。

 当時は、誰もが物資不足に困っていた時代でした。観客にとって常に目新しい衣装や道具類を用意するのは容易ではありません。

 リフォームしたり、衣装倉庫に眠っている衣装を掘りおこしたり。限りある物資の中で、製作スタッフの創意工夫がありました。

 そして、修繕もままならず、すきま風が入る寒い稽古場で、稽古に励むタカラジェンヌたち。

 悪環境に負けない気概は、ふたたび大劇場で舞台をやれる喜びからも来ていたのではないでしょうか。おとろえない舞台への情熱、たくましさに感銘をうけたエピソードです。

 

 そのほかにも印象深いエピソードがいくつも登場します。

 この本の内容についてもっとくわしくお知りになりたい場合は、コチラに目次を載せていますので、どうぞご参考に。

 

 

(司書H)

阪急文化研究年報第9号を発行しました

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阪急文化研究年報9号_小林一三「甲洲路」「笹子峠の露宿」「お花団子」

学芸員による調査・研究の成果を発表する『阪急文化研究年報』第9号を刊行しました。

内容は以下のとおりです。今号では、小林一三の"未発表原稿”"幻の小説"を掲載しています。

■資料紹介
宮井肖佳 「小林一三未発表原稿「甲洲路」「笹子峠の露宿」の翻刻および解題
正木喜勝 「小林一三作小説「お花団子」とその解題
仙海義之 「連載(五)了 「十巻抄」一〇巻(重要文化財)第九巻・第十巻」
竹田梨紗 「連載(九) 逸翁美術館蔵「芦葉会記」(昭和二十四年)」
■事業報告

閲覧ご希望の方は池田文庫にお越しいただくか、お近くの公共図書館や大学図書館にお尋ねください。

池田文庫は新型コロナウイルス感染症拡大防止策として、ご入館に際して一定の制限を設けております(2020年11月5日現在)。
詳しくは http://www.hankyu-bunka.or.jp/ikedabunko/topics/798/ をご覧ください。

池田文庫の本棚放浪記【第24回】~阪急電車駅めぐり~

 見慣れた景色に変化があると、「あ、変わった!」とお気づきになるかと思います。でも、新しい景色に慣れてくると、前の姿をだんだん思い出せなくなってきませんか。通勤・通学で毎日利用する駅の風景もまた然り。

 昔の駅のことを知りたい、写真を見たい。池田文庫には「阪急沿線の駅」に関するご相談がしばしば寄せられます。そんな時、まず開いてみることをおすすめするのが、今回ご紹介する『阪急電車駅めぐり 空から見た街と駅』(1980-81年)です。今から40年ほど前に阪急電鉄から出た本です。

 

 当時は駅の今昔を紹介する目的とした本でした。ですが、こののち改築や高架化された駅も多く、沿線の地域開発もまた進んでいます。この本の中で最新として紹介されている写真も、現在ではその面影が全くない、という場合が少なくありません。

 でも、昔から沿線の風景を見てきた方々にとっては、はっとしたり郷愁を誘われたりする、なつかしい風景かもしれません。「こんなだったの!?」という大昔の風景と、「そういえば、こんなだったなあ…」という、ちょっと昔の風景を楽しめる本です。

 

 

 さてこの本は、1駅につき1章の構成で、駅と周辺地域の歴史を紹介しています。調べたい駅の情報にすぐにたどり着けるところが、とても便利です。

 廃止された駅についても、その前後駅のところで触れていたりします。3冊なのは、宝塚線、神戸線、京都線の各線につき1巻あるためです。

 

 最も早くに開通した宝塚線の巻は、明治末期の阪急草創期の写真も含みますし、神戸線の巻は、戦前の阪神との競い合いにまつわる話、乗務員・駅員の話なども盛り込まれていて、阪急の発行物ならではの逸話を披露してくれます。

 京都線は、新京阪、京阪、阪急・京阪の合併、分離ののち阪急と、複数の鉄道会社を経てきました。千里線にいたっては、その前身に北大阪電気鉄道も加わります。そのため、資料の散逸をまぬがれなかったのか、資料集めに苦労したようです。でも、その紆余曲折にこそ、歴史の妙味あり。読み応えのある巻になっています。

 

 駅の本には、『阪急ステーション 写真で見る阪急全駅の今・昔』(2001年)という本も阪急から発行されています。こちらは3線を1冊にまとめています。1駅に割くページは少ないですが、『駅めぐり』に出てこなかった写真も掲載されていたりしますので、こちらもぜひチェックしてみてください。

 

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第23回】~日本劇場~

 池田文庫には宝塚歌劇や歌舞伎以外の上演資料も豊富に所蔵しており、現在もその整理作業をすすめています。


 先だって、東京にあった日本劇場(通称:日劇)の上演プログラムの整理作業を終え、池田文庫の蔵書検索で検索できるようになりました。そのご報告がてら、今回は日本劇場に関する資料をご紹介したいと思います。

 

 日劇は昭和8(1933)年の暮れ、東京・有楽町に開場します。”陸の竜宮”のキャッチ・フレーズで、3階席まで観客を収容できる大劇場でした。しかし経営難から、程なくして東宝(当時・東京宝塚劇場)の傘下となります。

 

開場式プログラム(逸翁文庫より)

 


 日劇は、映画とともにさまざま舞台パフォーマンスを上演する劇場でした。そのパフォーマーとして活躍したのが、日劇ダンシング・チーム。男女混成の舞踊団です。


 初公演の昭和11(1936)年の1月から昭和56年(1981)年2月に日劇が閉館するまで、40年以上にわたり、日劇の舞台を彩りました。

 

 この日劇ダンシング・チームをつくり、その育成に情熱をそそいだ人物がいます。秦豊吉(1892-1956)です。この人物は異色の経歴の持ち主でした。東宝に入社し、はじめて演劇事業の世界に飛び込んだのが41歳。それまでは商社マンでした。


 一方で、ドイツ文学・演劇に造詣が深く、文筆業でも精力的に活動しました。翻訳や随筆を多くのこしています。商社マンとしてドイツに駐在していた期間には、現地で存分に文学・演劇に触れ、その見識にますます磨きをかけました。


 そこからの演劇事業への転身。紆余曲折を経てきたようにも、通るべき道をずんずん歩んできたようにも見えます。

 この多才でパワフルな人物に着目し、その足跡を追った『行動する異端 秦豊吉と丸木砂土』(森彰英著)という本が出ています。また、秦豊吉の遺稿集『日劇ショウと帝劇ミュージカルスまで』では、本人による文章で当時の日劇の様子を知ることができます。

 日劇ダンシング・チームのステージの様子や、「熱した鉄板の上に素足で立っている心持」と表した、時間に追われるなかの鬼気迫る稽古場風景なども語られています。興味をもたれた方は、ぜひご覧になってみてください。

 

 秦豊吉は戦中まで日劇ダンシング・チームを率いました。上演してきたもののなかに、民族舞踊を題材とした一連のショーがあります。これらのショーをつくるために、現地へスタッフが派遣され、取材が行われました。派遣先は日本国内にとどまらず、アジア圏にもおよんでいます。

 そのスタッフの中に、渡辺武雄という人物がいました。台湾へ取材に行き、その成果をもとに、『燃ゆる大地・台湾(山の巻)』という作品を手がけています。

 渡辺氏は、のちに宝塚歌劇団の演出家、そして宝塚歌劇団の郷土芸能研究会の中心的なメンバーになります。郷土芸能研究会は、日本各地の民俗芸能を取材し、その成果を舞台化しました。渡辺氏は、日劇でのこの経験が、「宝塚で民俗舞踊シリーズの作品に取り組む原動力となった」*と語っています。

 郷土芸能研究会が収集した民俗芸能資料は、現在、池田文庫が所蔵しています。この膨大なコレクションの種は、日劇で蒔かれていたと言っていいのかもしれません。

 

*池田文庫編『宝塚歌劇における民俗芸能と渡辺武雄』p146

 

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第22回】~変化するタカラヅカのプログラム~

 公演中、劇場内で販売される宝塚歌劇のプログラム。観劇前にはワクワク感を高め、観劇後には余韻にひたらせてくれる存在です。

 100余年の歳月のなか、宝塚歌劇のプログラムも変化して、現在のかたちになりました。では、昔のタカラヅカのプログラムって、一体どんなものだったんでしょう。

 今回は、池田文庫所蔵の宝塚での本公演プログラムから、その移りかわりをご覧いただきたいと思います。

 

大正時代のプログラム

 下は、現在池田文庫の所蔵する、宝塚で行われた公演プログラムのなかで最も古いもの。初公演からおよそ2年後、大正5(1916)年の7月から8月にかけてパラダイス劇場で行われた公演のプログラムです。この公演については、配役ちがいで2種類のこっています。

 演目と配役だけを載せたとてもシンプルなものです。これでは、演目がどんな内容だったかまではわかりません。それには脚本集という別の発行物があり、上演された舞台の内容は、そちらで振り返ることができました。池田文庫では、脚本集も大正時代のものから所蔵しています。

 

昭和初期から戦後にかけて

 プログラムは、演目と配役が1枚ではおさまらないときは小冊子になり、昭和初期には小冊子が常態となります。まだ大きさはずいぶん小さくて、手のひらサイズです。

 昭和7年頃より、表紙デザインにタカラジェンヌの写真も使われはじめます。このままデザインの主役は、イラストレーションから写真に移るかと思いきや、時代はまもなく戦争へ。戦時下の興行の苦難はデザインにも影響し、表紙はまたイラストレーションにもどります。図柄も和風、または時局に則した堅苦しいものになってしまいます。

 

昭和5~10年頃(左) 昭和21年4月(右)

 戦後、昭和21(1946)年4月公演で宝塚大劇場は再開しました。上の右側の写真がその時のプログラムです。

 戦後の混乱期ですから、表紙は戦前の方が華やかにみえます。ですが、内容は、演目と配役だけでなく、出演者の写真も載るようになりました。イラストレーションより写真を多用する時代に本格的に入っていきます。

 

プログラムが2種類? そして現在へ

 じきに、脚本を掲載した冊子の発行も再開します。そちらもやがて「プログラム」と称するように。

 下はどちらも同じ公演のときに発行されたものです。このように、しばらくは演目・配役を載せたシンプルなタイプと、脚本入りのものが並行していました。やがて脚本入りの方だけが残ります。

 プログラムに脚本が掲載されるかたちは、平成10年頃までつづきます。

 

昭和48(1973)年2月

 

 現在のプログラムには脚本は掲載されていません。

 脚本入りの頃と違いは、写真がふえ、さらにカラフルに華やかになったこと。舞台となった国・時代の歴史的背景のうんちく、出演者の言葉などにもページを割いて、より深い鑑賞へ導いてくれるものになったことです。

 脚本の掲載はなくなってしまったことを、残念に思われる方もいらっしゃるでしょう。

 そんな方は舞台写真集の「Le CINQ (ル・サンク)」を手にとってみてください。

 大正時代の脚本集からつづく脚本掲載は、現在こちらが引き継いでいます。宝塚大劇場公演の華やかなステージ写真とともに、芝居物の脚本(一部除く)は、こちらで読むことができます。

 

プログラム(左)   舞台写真集「Le CINQ」(右)

 

 

[司書H]

 

池田文庫の本棚放浪記【第21回】~今昔たからづか~

 池田文庫が所蔵する宝塚歌劇関連資料の中には、タカラジェンヌやOGが執筆した本も含まれます。今回はその中から、冨士野高嶺著『今昔たからづか -花舞台いつまでも-』(1990年)をご紹介したいと思います。

 

 作者の冨士野高嶺氏は昭和3(1928)年に宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)に入学。翌年に初舞台を踏んでから、昭和47(1972)年の退団まで、40年以上の長きに渡り宝塚歌劇の舞台を支え、退団後も日本舞踊の指導者として貢献をつづけました。

 

 冨士野氏が舞台以外の場所でみせた才能が、文才と画才です。『歌劇』などの宝塚歌劇団の機関誌で、たびたびその才能を発揮しました。この本も『歌劇』誌に掲載した宝塚における舞台生活に関する文章をまとめたものです。

 

 

 表紙を、本人による粋な絵が飾っています。文章にも絵にも共通しているのは、生き生きとして、ユーモアにあふれているところです。

 

 文章中に時折日記が引用されており、作者が日記をつけていたことがうかがえます。それが思い出を掘りおこすよすがとなっているのでしょう。今にも舞台のさざめき、生徒たちのハツラツとした声がきこえてきそうな臨場感があります。

 

 入学試験、予科生時代、初舞台、舞台中のハプニングなどのタカラジェンヌの通過儀礼はもちろん、尊敬する師、上級生・同期生との触れ合いから生まれた、ゆかいな逸話が盛りだくさんです。

 笑い話、失敗話、怒られ話、しみじみする話。

 登場する顔ぶれも、久松一聲、岸田辰彌、白井鐵造、天津乙女、門田芦子、奈良美也子、春日野八千代などなど、オールドファンにはおなじみの人々でいっぱいです。

 ゆきし日の宝塚歌劇の舞台裏の世界をたっぷり堪能できる本です。

 

 小林一三に似顔絵をプレゼントしたときの話も出てきます。このときの絵も小さくですが、掲載されています。プロはだしのとてもユーモラスな絵ですので、ぜひご注目ください。

 

 戦争という厳しい時代を乗り越えたOGの著書は、情報の少ない戦時中の宝塚歌劇団の活動について、貴重な証言を与えてくれる存在でもあります。『今昔たからづか』が、そうした本であることも注目したい点の一つです。

 

 

(司書H)

 

池田文庫の本棚放浪記【第20回】~大阪の宿~

 外出がままならない日々、積読本の消化に励んでおられる方も多いでしょうか。私もその一人で、ながらくほったらかしにしていた本に手をつけることができました。

 今回はその中から一冊、大阪が舞台の名作として名高い、水上滝太郎著『大阪の宿』をご紹介します。もちろん池田文庫でも所蔵している本です。

 

 著者・水上滝太郎(1887-1940)は東京生まれ。慶應義塾大学卒の、いわゆる三田派と呼ばれる作家のひとりです。作家と会社員の二足のわらじを履き、文学界だけでなく、実業界にも足跡を残した人でした。

 実は『大阪の宿』は、そんな水上の会社員生活がなければ生まれませんでした。大阪に赴任した時の経験がこの作品のルーツになっているからです。

 主人公・三田は、東京から大阪に赴任してきた会社員で、生活の合間に小説を書くという、著者自身を投影したような人物です。

 同じ主人公で『大阪』という作品があるのですが、こちらは来阪早々暮らし始めた下宿屋の話が中心で、最終的にはその下宿屋のがめつさに嫌気がさして出ていくところで終わります。

 『大阪の宿』は、そのあと、三田が土佐堀の川べりにある酔月という旅館を見つけ、新しい住まいに定めるところからはじまります。

 

 『大阪』の下宿屋とくらべて、酔月は三田にとって暮らしやすいところでした。そこで会社勤めと執筆活動の二重生活を送るなか、さまざまな人に出会います。

 相性のよくない人もいますし、苦々しい内実が耳に入ることもあります。裏切りにあったり、厚かましさにあきれたり。したたかでどこか憎めない面々と付き合いながら、三田の大阪暮らしがすすんでゆきます。

 なかでも強烈な個性を放つのが、芸者の蟒(うわばみ)姐さん。酔うと誰彼なく、ものすごい剣幕でコップ酒を強要する、実際酒席にいたら迷惑極まりない人なのですが、反面、裏表のない性格で、読むにつれ物語に清々しい印象を与える不思議な存在になっていきます。

 ときおり差しはさまれる大正時代の水都大阪をうつす美しい風景描写も、この小説の読みどころのひとつです。

 

 さて、『大阪の宿』は現在品切れのようですが、電子書籍など、ご自宅で手に入る方法もあるようです。もしご興味がありましたら、ステイ・ホーム中の読書候補の一冊に加えていただけると幸いです。

小林一三の旧蔵書・逸翁文庫より

 

 余談ですが、慶應卒で実業界にも身を置いていた水上滝太郎。同じく慶應卒の小林一三とのつながりを探ってみたくなりますが、実際交流はあったようです。

 三田派の牙城の文学雑誌『三田文学』の水上滝太郎追悼号、全集の刊行記念号*には文を寄せて、その早逝を惜しみ、また愛読者であることも明かしています。

 特に一読をすすめているのは評論・随筆集の『貝殻追放』。

 一三翁のおすすめにしたがい、こちらもぜひ読んでみなければと思っています。

 

*『三田文学』1940年5月臨時増刊号、10月号

 

 

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第19回】大正の阪急沿線情報誌~『山容水態』その2~

 前回に続き、大正時代の沿線情報誌『山容水態』についてです。

 前回ご紹介したのは、宝塚線の観光地の魅力を発信する『山容水態』でした。

 ところが、『山容水態』には、観光地のほかにもう一つ、アピールしたいことがあったんです。

 

 箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)は、鉄道経営の一方で、沿線のまちづくりも進めていました。池田室町を皮切りに、建売り住宅の販売を各地で開始します。

 

 土地家屋が売れると、その利益が得られる上、そこで暮らす住人が安定的に鉄道を利用するようになります。成功すれば、鉄道会社が地歩を固めるのに絶好の事業です。

 

 社の命運を握るともいえる事業のPRのため、箕面有馬電気軌道はさまざまな広告物を発行しました。『山容水態』もその一つ。住む場所として、この沿線がいかに魅力的かを伝えること。これこそが、『山容水態』のもう一つの仕事だったんです。

 

 

 気候のよさ、自然環境のよさ、水の清涼さ、都市部へのアクセスのよさ。さまざまな側面からこの沿線で暮らすことの魅力を伝えています。さらに、病院にも不自由しないことなど、郊外生活の不安をとりのぞく説明もあります。

 

 そして、その販売方法も工夫されました。

 

 

 

 当時、土地家屋の月賦販売のアイデアは、きわめて画期的なものでした。

「家賃ほどで家屋敷が買える」

 現在では、住宅ローンで家の購入を考える人が、必ずといっていいほど思い浮かべるフレーズではないでしょうか。その浸透ぶりから、このアイデアが世にあたえたインパクトの大きさがうかがえます。

 

 大正時代にご先祖さまが宝塚線沿線に移り住んだという方、移住の決め手になったのが、この『山容水態』の広告だった、なんてこともあるかもしれません。

 

 

 さて、この『山容水態』、前々回の『ドンブラコ』でも登場し、合わせて3回にわたってご紹介してきました。

 宝塚歌劇、郷土史、阪急の沿線開発事業史など、多方面から注目される資料ですので、よく閲覧の希望が入ります。

 原本は貴重資料ですが、複製を作成しておりますので、そちらでご覧いただけます。

 

 また、掲載記事の索引も作成しています。索引は池田文庫の蔵書検索で検索できます。調べものの際には、ぜひご活用ください。

 

 

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第18回】大正の阪急沿線情報誌『山容水態』その1

 2020年、阪急電鉄は開業110周年を迎えます。明治終盤にはじまり、大正、昭和、平成を越え、そして令和と、時代とともに阪急沿線も変化を続けてきました。

 

 そんな沿線の最新情報を知るには、阪急沿線情報誌が便利です。折々のおすすめスポットやイベント情報を教えてくれる冊子で、現在は『TOKK』というタイトルで、阪急電鉄の各駅で配布されています。

 

 行楽のお供にと、何気なく手にとられたことのある方も多いでしょう。しかし、これが将来、沿線の歴史の情報庫になりうることまで想像しながら読む人は少ないかもしれません。

 

 今回ご紹介する『山容水態』は大正時代の阪急沿線情報誌。まさに、草創期の阪急と当時の沿線について、貴重な情報の宝庫となった例です。月刊のレギュラー版ですと、池田文庫では大正2~5(1913~16)年のものを所蔵しています。この頃はまだ宝塚線のみの運行でしたので、載っている情報は宝塚線沿線のものです。

 

 

 この中では、当時の沿線に存在したレジャー施設が紹介されています。

 

 例えば、箕面公園には自然の渓谷を利用してつくられた箕面動物園がありました。

 

 全国中等学校優勝野球大会(後の全国高等学校野球選手権大会)の第一回・二回が行われた場所として知られているのは、豊中グラウンド。『山容水態』では、アメリカの大学野球チームと日本の大学野球チームが戦う日米野球戦など、国際色あるイベントも度々開催されていたことがわかります。

 

 

 宝塚新温泉(後に宝塚ファミリーランド)では、当時から温泉の他にもさまざまな娯楽設備をそなえて温泉客を楽しませました。そのひとつだった室内水泳場は劇場に転用され、宝塚少女歌劇の公演が行われるようになります。→【第17回】~ドンブラコ~

 図書室もありました。これは後に宝塚文芸図書館、池田文庫へと引き継がれていきます。

 

 また、四季折々の自然美でも行楽客をひきつけようと、さかんに宣伝しました。もちろん当時から、箕面公園は景勝地として宝塚線の観光の目玉の一つ。一方で、松茸狩や宝塚の梅の名所・宝梅園など、今の宝塚線では聞かれなくなったレジャーも目につきます。

 

 

 変わらないものと変わったもの。ぜひ、今の沿線、記憶の中の沿線と比べながら読んでみてください。

 

 『山容水態』は複製資料で御覧いただけます。

 

 さて、このように『山容水態』は、電車の乗客となってくれる観光客を増やすため、観光地としての沿線の魅力を発信していました。

 ところが、この雑誌には、もう一つ大きな目的がありました。それは、沿線の住人を増やすこと。そのために、住む場所としての沿線の魅力を発信していたんです…が、今回はこのあたりで。次回に続きます。

 

 

 

(司書H)