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池田文庫の本棚放浪記【第19回】大正の阪急沿線情報誌~『山容水態』その2~

 前回に続き、大正時代の沿線情報誌『山容水態』についてです。

 前回ご紹介したのは、宝塚線の観光地の魅力を発信する『山容水態』でした。

 ところが、『山容水態』には、観光地のほかにもう一つ、アピールしたいことがあったんです。

 

 箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)は、鉄道経営の一方で、沿線のまちづくりも進めていました。池田室町を皮切りに、建売り住宅の販売を各地で開始します。

 

 土地家屋が売れると、その利益が得られる上、そこで暮らす住人が安定的に鉄道を利用するようになります。成功すれば、鉄道会社が地歩を固めるのに絶好の事業です。

 

 社の命運を握るともいえる事業のPRのため、箕面有馬電気軌道はさまざまな広告物を発行しました。『山容水態』もその一つ。住む場所として、この沿線がいかに魅力的かを伝えること。これこそが、『山容水態』のもう一つの仕事だったんです。

 

 

 気候のよさ、自然環境のよさ、水の清涼さ、都市部へのアクセスのよさ。さまざまな側面からこの沿線で暮らすことの魅力を伝えています。さらに、病院にも不自由しないことなど、郊外生活の不安をとりのぞく説明もあります。

 

 そして、その販売方法も工夫されました。

 

 

 

 当時、土地家屋の月賦販売のアイデアは、きわめて画期的なものでした。

「家賃ほどで家屋敷が買える」

 現在では、住宅ローンで家の購入を考える人が、必ずといっていいほど思い浮かべるフレーズではないでしょうか。その浸透ぶりから、このアイデアが世にあたえたインパクトの大きさがうかがえます。

 

 大正時代にご先祖さまが宝塚線沿線に移り住んだという方、移住の決め手になったのが、この『山容水態』の広告だった、なんてこともあるかもしれません。

 

 

 さて、この『山容水態』、前々回の『ドンブラコ』でも登場し、合わせて3回にわたってご紹介してきました。

 宝塚歌劇、郷土史、阪急の沿線開発事業史など、多方面から注目される資料ですので、よく閲覧の希望が入ります。

 原本は貴重資料ですが、複製を作成しておりますので、そちらでご覧いただけます。

 

 また、掲載記事の索引も作成しています。索引は池田文庫の蔵書検索で検索できます。調べものの際には、ぜひご活用ください。

 

 

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第18回】大正の阪急沿線情報誌『山容水態』その1

 2020年、阪急電鉄は開業110周年を迎えます。明治終盤にはじまり、大正、昭和、平成を越え、そして令和と、時代とともに阪急沿線も変化を続けてきました。

 

 そんな沿線の最新情報を知るには、阪急沿線情報誌が便利です。折々のおすすめスポットやイベント情報を教えてくれる冊子で、現在は『TOKK』というタイトルで、阪急電鉄の各駅で配布されています。

 

 行楽のお供にと、何気なく手にとられたことのある方も多いでしょう。しかし、これが将来、沿線の歴史の情報庫になりうることまで想像しながら読む人は少ないかもしれません。

 

 今回ご紹介する『山容水態』は大正時代の阪急沿線情報誌。まさに、草創期の阪急と当時の沿線について、貴重な情報の宝庫となった例です。月刊のレギュラー版ですと、池田文庫では大正2~5(1913~16)年のものを所蔵しています。この頃はまだ宝塚線のみの運行でしたので、載っている情報は宝塚線沿線のものです。

 

 

 この中では、当時の沿線に存在したレジャー施設が紹介されています。

 

 例えば、箕面公園には自然の渓谷を利用してつくられた箕面動物園がありました。

 

 全国中等学校優勝野球大会(後の全国高等学校野球選手権大会)の第一回・二回が行われた場所として知られているのは、豊中グラウンド。『山容水態』では、アメリカの大学野球チームと日本の大学野球チームが戦う日米野球戦など、国際色あるイベントも度々開催されていたことがわかります。

 

 

 宝塚新温泉(後に宝塚ファミリーランド)では、当時から温泉の他にもさまざまな娯楽設備をそなえて温泉客を楽しませました。そのひとつだった室内水泳場は劇場に転用され、宝塚少女歌劇の公演が行われるようになります。→【第17回】~ドンブラコ~

 図書室もありました。これは後に宝塚文芸図書館、池田文庫へと引き継がれていきます。

 

 また、四季折々の自然美でも行楽客をひきつけようと、さかんに宣伝しました。もちろん当時から、箕面公園は景勝地として宝塚線の観光の目玉の一つ。一方で、松茸狩や宝塚の梅の名所・宝梅園など、今の宝塚線では聞かれなくなったレジャーも目につきます。

 

 

 変わらないものと変わったもの。ぜひ、今の沿線、記憶の中の沿線と比べながら読んでみてください。

 

 『山容水態』は複製資料で御覧いただけます。

 

 さて、このように『山容水態』は、電車の乗客となってくれる観光客を増やすため、観光地としての沿線の魅力を発信していました。

 ところが、この雑誌には、もう一つ大きな目的がありました。それは、沿線の住人を増やすこと。そのために、住む場所としての沿線の魅力を発信していたんです…が、今回はこのあたりで。次回に続きます。

 

 

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第17回】~ドンブラコ~

 北村季晴作の歌劇『ドンブラコ』。

 この作品は大正3(1914)年4月に披露された宝塚少女歌劇第一回公演の演目の一つです。

 宝塚新温泉の娯楽施設の室内プールを劇場に転用したという印象深いエピソードとともに、ご記憶の方は多いかもしれません。

 管絃合奏や合唱にダンス、喜歌劇も同時に上演されていますが、5場からなる『ドンブラコ』は構成の中心だったといえます。

 

 宝塚歌劇団の年史類をひらくと、桃太郎をはじめ登場キャラクターに扮する少女たちの初々しい姿を目にすることができます。もっと『ドンブラコ』について知りたいと思われる方もいらっしゃるかもしれません。

 

 どんな内容で、誰がどんな役をしていたのか。そんなことも分かるのでしょうか。

 実のところ、宝塚歌劇の資料を集中的に収集する池田文庫においても、『ドンブラコ』を伝える資料というのはきわめて少ないのです。

 公演ポスター、プログラムは所蔵していません。当然ながら、機関誌『歌劇』もまだ創刊されていません。

 

 池田文庫所蔵資料の中で、当時の公演を伝えるものとして挙げられるのが、『山容水態』。かつて箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)が発行していた沿線案内パンフレットです。

 現在『TOKK』という阪急の沿線情報をのせた冊子が発行されていますが、『山容水態』も、阪急草創期の沿線情報誌と考えていただくと、わかりやすいかもしれません。

 

 

 上は、『山容水態』大正3年4月号 (複製資料を撮影)。宝塚新温泉で行われていたイベントが特集されています。その一つとして宝塚少女歌劇第一回公演を紹介し、少女たちの西洋音楽へのチャレンジを高らかに宣伝しています。演目や配役も詳しく伝えています。

 

 作品そのものを知るには、次のような資料もあります。

 

 

 この本は明治45(1912)年3月に刊行されました。楽譜、脚本、舞台装置例もついていて、これをもとに『ドンブラコ』の上演ができるようになっています。第一回公演にかかわった人たちがお手本にしたのも、こうした類いの本だったかもしれません。池田文庫が所蔵しているものには、「聲音之部」とあり、楽譜は歌部分のみです。

 

 キジ、猿、犬がおのおのの鳴き声で合唱しつづけるところは、ユニークで興味をひかれます。なかなか難しそうにもみえますね。

 

 

 100年を越える宝塚歌劇の歴史。そのはじまりはこんなに素朴でかわいらしい舞台だったのだと、今に伝えてくれる資料です。

 

※ご紹介した資料は複製でご覧いただけます。

 

 

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第16回】~小林一三翁に教えられるもの~

 阪急の創業者、小林一三についての本はたくさんあります。その中でも、直接かかわった人々が語るエピソードは、後世の人が小林一三を知るうえで、大切な証言といえます。

 

 こうした証言は、特に逝去した昭和32(1957)年、新聞・雑誌に追悼文としてたくさん掲載されました。親交のあった著名人たちによる追悼文集「小林一三翁の追想」という分厚い単行本もあります。

 

 今回ご紹介する『小林一三翁に教えられるもの』(1957年刊) もそうした追悼本の一つです。注目したいのは、小林一三の仕事ぶりを長く側で見てきた人が、一冊の本になるほどの量の言葉を残してくれたということです。

 

 

 著者の清水雅は小林一三に誘われ、昭和4年に阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)に入社しました。のちには、阪急百貨店、東宝、阪急電鉄をはじめ、グループの数々の企業の要職を歴任した人物です。

 

 著者は、小林一三のアイデアのひらめき、仕事への情熱を目の当たりにしてきました。改善の余地を見逃さない鋭いまなざし。たゆまぬ研究心と改良の努力。それを周囲にも厳しく求めてゆきます。

 そんな小林一三に刺激を受けながら仕事に取り組んだ日々を、事業のウラ話をからませながら、親しみやすい文章で語っています。

 

 小林一三は60歳を過ぎてから、はじめて海外視察旅行にでかけますが、当時30代だった著者もこの旅に随行しました。この時の思い出は、特に印象深かったようで、本の中でもたびたび取り上げています。

 特別気に入って入手した骨董品をはなさず、旅行中ずっと手ずから持ち運びしていたことや、旅行中のほんの数日の間に、1冊分の原稿を書き上げてしまうほどの筆のはやさなど、小林一三の経営者以外の顔をとらえた印象的なエピソードも披露しています。

 

 故人と過ごした日々への愛惜とともに、その側で学んだことを次代の人に伝えたいという思いも込められた本です。

 

 この本の目次を目録に載せています。

 どんな話が載っているのか、気になりましたらコチラをご参考に。

 

 

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記 【第15回】~闘牛~

 昭和を代表する作家の一人、井上靖の作品に「闘牛」という中編小説があります。

 「闘牛」と聞くと、スペインの闘牛、闘牛士と闘牛の戦いを思い浮かべる方がいらっしゃるかもしれません。ところが、日本の「闘牛」とは、牛対牛、いわゆる牛相撲を指し、郷土の伝統競技として、現在も日本各地で行われています。

 その一つ、愛媛県宇和島の闘牛を、兵庫県西宮で行おうと奔走する人間たちを描いたのがこの作品です。

 

 

 実は、この闘牛大会のモデルとなったイベントがありました。

終戦からまだ1年半ほどの昭和22(1947)年1月、阪急西宮北口駅近くにあった西宮球場で、実際に行われた南予闘牛大会です。

宇和島の闘牛の阪神初公開の場でもありました。主催は新大阪新聞社。当初2日間の予定でしたが、2日目の午前の部が雨で中止となり、順延して3日間となりました。

宣伝のために、思い切った前奏行事も行われています。

梅田-難波間や神戸市内で、化粧まわしで飾った出場牛のパレードを行ったり、”カルメン”の曲を流すサウンド・トラックを走らせたり、中之島で招待券やビラを仕込んだ花火を打ち上げたり。

大会の盛り上げに、相当な力の入れようです。

 

 

 井上靖がこの大会を訪れたのは、みぞれ降る寒い日だったといいますから、2日目だったのでしょう。

 悪天候のせいで、まばらな観衆。垂れ下がるのぼり。リングでは二頭の牛が角を突き合わせたまま微動だにしない。それを声もなく見おろす観衆・・・。そんな会場風景から、井上は悲哀を感じたといいます。それが、当時の日本が、社会が、日本人が持っていた悲哀に通ずると感じ、このことを書きたいと思ったそうです。

 

 小説の闘牛大会は成功しません。小説では開催予定は3日間。そのうちの2日間が雨で中止という、事実と異なる痛々しい結果で描かれ、なんともやるせない後味をのこします。作者の目指すところに沿うよう、こう描かれなければならなかったのでしょう。

 井上靖は、この作品で芥川賞を受賞しています。

 

 西宮では、球場または球技場で、以降もたびたび闘牛大会が開かれました。一度きりとならなかったのは、小説ほどには、寂しい結果ではなかったことの表れではないでしょうか。井上靖も「実際にはこの闘牛大会は新聞社の事業としては宣伝効果からみても大きい成功をおさめ…(略)」と語っています。

 

 池田文庫所蔵の、阪急沿線のイベントポスターの中に、昭和36年から昭和53年にかけて行われた、5度の闘牛大会の宣伝ポスター6枚を確認できます。(あいにく小説のモデルとなった初回のものはありません。)

 

 見ると、内容も初回から進化しています。やはり闘牛で有名な鹿児島県徳之島の牛と、宇和島牛との対戦を企画するなどの趣向が凝らされていることもわかります。

 

阪急文化アーカイブズで、「闘牛 西宮」と検索すると、これらの画像がご覧いただけますので、ぜひお試しください。

 

参考資料:    毎日新聞 昭和25年2月2日 井上靖「『闘牛』について」

      夕刊新大阪 昭和22年1月刊の各号

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記 【第14回】~ナイト・カブキ~

 東京オリンピックまで一年を切りました。来年はいったいどんなお祭り騒ぎになるのでしょう。押し寄せる訪日客を当て込んで、各界では様々な計画が進行していることと思います。

 さて、先の1964年東京オリンピック時はどうだったのか。今回は、1964年10月の東京演劇界の様子をちょっと覗いてみたいと思います。

 

 まずは、歌舞伎座。

 昼夜の歌舞伎興行に加えて、「ナイト・カブキ」と称した深夜興行が行われました。なんと開演は夜の9時40分で終演は0時。オリンピック関係者を招待した貸切公演もおこなわれました。選手達も歌舞伎を楽しんだんですね。

 

 

 上は池田文庫が所蔵するナイト・カブキの公演プログラムです。日本語のほか、英語、フランス語の解説も併記して、訪日客を意識していることがよくわかります。

 演目は、第1部に「暫」,「楼門五三桐」,文楽の「櫓のお七」。第2部は赤坂芸妓による踊り「舞妓」。歌舞伎以外の伝統芸能も織り交ぜた構成でした。

 大向うのかけ声に、外国人のお客さんはびっくりした様子だったといいます。

 

 

 東京宝塚劇場は宝塚歌劇公演。専科・月組による「ユンタ」と「日本の旋律」です。

 1本目の「ユンタ」は当時宝塚歌劇団内にあった郷土芸能研究会(当時・日本郷土芸能研究会)が沖縄県八重山群島を取材し、この地方の芸能を舞台化したものです。ユンタとはこの地方に伝わる作業歌のことをいいます。2本目の「日本の旋律」はタイトルの通り、古今の日本の歌やメロディーを集めて構成したもの。

 どちらも日本独自の音楽や踊りで魅せる演目だったのは、外国人の観客が増えることを見込んでのことかもしれませんが、これを観て、日本の音楽の多様性に目を開いた日本人観客も少なくなかったのではないでしょうか。

 

 ちなみに東京宝塚劇場でも深夜興行がありました。長谷川一夫製作・構成・演出・主演の『東宝歌舞伎おどり』です。生憎、この公演プログラムは池田文庫にはありませんが、9時半から10時50分と、こちらもかなり遅い時間だったよう。歌舞伎座といい、劇場関係者はさぞや忙しい日々だったろうと思います。

 

 さて、来年のオリンピック開催時も、東京の演劇界は外国人のお客様を意識せずにはいられないと思います。

 50年の間に、外国人への日本のアピールポイントも変化してきました。その変化が、劇場でかけられる演目にも表れるでしょうか。来年の演劇界のライン・アップに注目です。

 

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第13回】~キネマ旬報~

 『キネマ旬報』が創刊100周年を迎えました。創刊は1919(大正8)年。数ある映画雑誌の中で、『キネマ旬報』がその代表格のように見られるのは、まさにこの歴史の長さからくると思います。

 

 雑誌は定期的に発刊し、書店に並ぶものも常に新しい号へ入れ替わるわけですから、読者は現代人と想定するのが通常です。『キネマ旬報』は、それに加え、後世へ残る記録として、後々の活用も意識されているように感じます。

 

 そのことは、毎年2月下旬号と3月下旬号が、一年を振り返る内容で、ちょっとした映画年鑑のような装いになることにも表れています。特に2月下旬号に収録されるリスト類や索引は、調べたいことに関する記事を探すのに、しばしば活用しています。

 また、この号ではキネマ旬報ベスト・テンが発表されます。この賞の発表を楽しみにしている映画ファンは、結構いらっしゃるのではないでしょうか。

 

 さて、100年、そして旬刊という発行ペースから、これまでに刊行された冊数は2600を超えます。実は池田文庫、この大部分を所蔵しているんです。

 

 左は池田文庫が原本で所蔵するものの中で、最も古い大正9(1920)年2月11日号。(これ以前は復刻版を所蔵しています。)

 そして右は1923年11月21日号。9月の関東大震災の被害により、一時期兵庫・西宮に移転していたときに発行されたもの。関西とも縁のある雑誌だったんですね。

 いずれも一色刷り、ページ数も少ないです。

 

 大正の終わり頃から徐々に鮮やかな多色刷の映画広告が入るようになります。(写真はいずれも昭和2年頃のもの)

 

 精密さにおいては現代の印刷物と比ぶべくもないのでしょうが、これはこれで、眺めていて楽しいものです。

 当時から、映画会社はきそって『キネマ旬報』にこうした広告を載せたがったとか。発行部数がふえると、そのぶん損するという話もあったようです。*

 

 大正から令和まで、四時代を生きぬいてきた『キネマ旬報』。映画業界の歴史のみならず、雑誌自身の歩みに注目して、読んでみるのも面白そうです。

 

*岩崎昶「映画ジャーナリズムの責任と反省」(「キネマ旬報」昭和43年7月1日号)

 

 

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第12回】~鉄道雑誌~

 文系図書館の池田文庫の書庫の一画に、少々異色の存在感を放つ一群があります。

 鉄道雑誌群です。

 池田文庫の閲覧室には「鉄道ピクトリアル」と「鉄道ファン」のごく一部の年代のものが並んでいますが、実はその何倍もの鉄道雑誌が書庫の中にひそんでいます。

 

 

 池田文庫にある鉄道雑誌には、実務者向けと思われるものもありますが、おおかたは鉄道ファンの方々を対象としたものです。

 

 誌名自体は、『鉄道』『レイル』『トレイン』といった語を含んだ、いかにもな名前でどれも似通った印象なのですが、内容にはそれぞれ個性があります。一口に鉄道ファンといっても、こだわりポイントは人それぞれ。多様で深いこだわりをもつ読者にアピールするために、雑誌も分化・深化していったようです。

 

 「鉄道ファン」「鉄道ジャーナル」「レイル・マガシン」「鉄道ダイヤ情報」などは美しいカラー写真が多く掲載されていて、鉄道ファンのもっともポピュラーな層に受け入れられるものと思います。

 より深い鉄道研究・考察へ関心がおよんだ方は「鉄道ピクトリアル」を好まれるかもしれません。

 模型愛好家向けに「鉄道模型趣味」「とれいん」といったものもあります。鉄道愛好文化の奥深さを感じますよね。

 

 探究心の強い読者の期待にこたえんとする雑誌づくりは、やりがいとともに緊張感もありそうです。けれども、その雑誌づくりの強い味方もまた、読者であるよう。どの鉄道雑誌にも読者の投稿をつのる欄が見られます。それに応えて全国の鉄道ニュースや写真を寄せてくる投稿者たちが、まるで特派員のように見えてきます。

 読者(ファン)が雑誌づくりの一端を担う。ここにもファンの心を惹きつけてやまない鉄道雑誌の魅力があるのかもしれません。

 

 池田文庫にある鉄道雑誌は蔵書検索サービスで、検索できます。何の雑誌のどの年代が池田文庫にあるのか、ご興味のある方はぜひ調べてみて下さい。

 

 また、何かの折に、司書が所蔵雑誌の中に阪急電鉄関連の記事を見つけたときには、小さなものでも、随時索引を作成し、何の記事がどの雑誌の何号に載っているのかわかるように努めています。こちらも蔵書検索サービスで検索ができるようになっています。

 

 阪急電車の模型の展示もある今回の逸翁美術館の展覧会にちなみ、試しに「模型」で検索してみましたが、何とも気になる記事たちが出てきますよ。

 もし阪急に関わる調べものをお持ちでしたら、ご参考になるような記事も見つかるかもしれません。ぜひお試しください。

 

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第11回】~宝塚よりあなたへ~

 ゴールデンウィークをいかがお過ごしでしょうか。今回は、多くの方のゴールデンウィークの思い出に残る場所、宝塚ファミリーランドに関する資料をご紹介します。

 

 宝塚ファミリーランドの歴史は、明治44(1911)年、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)による宝塚新温泉の開業からはじまります。

 平成15(2003)年の閉園まで、温泉、劇場、動・植物園、遊園地などの施設をあつめ、さまざまな世代の人が楽しめる娯楽地として人気を博しました。

 

 宝塚新温泉内には図書館もあったんです。それが池田文庫の前身、宝塚文芸図書館です。

 建物はのちに宝塚歌劇の歴史の展示を行う宝塚歌劇記念館としても活用されましたので、そちらへは足を踏み入れたことがあるかもしれません。

 

 上はその文芸図書館が定期的に発行していた『宝塚文芸図書館月報』(昭和11(1936)年~昭和19(1944)年刊を所蔵)。

 演劇に関する記事や所蔵資料の案内が主ですが、時には新温泉内の他の施設の紹介や、昆虫館・植物園の利用客の関心に応えるために昆虫・植物に関する専門的な記事なども載せていました。

 

 より多くの方が「これぞ私の知るファミリーランド!」と感じるのは、むしろこちらの方かもしれません。『宝塚よりあなたへ』 (のちに『To you from Takarazuka』)、季節ごとに発行されていた宝塚ファミリーランドの情報誌です。池田文庫では昭和53(1978)年から平成5(1993)年のものを所蔵しています。

 次々行われる催し物や遊戯機の宣伝。大人形館や恐竜館なども紹介されています。

 動物園からは飼育レポート。ホワイトタイガーがはじめて動物園にやって来たとき、赤ちゃんが誕生したときは、誌面もおおいに盛り上がっています。

 四季折々の花だよりは、植物園から。夏には、池に人が乗れるほどの大きさのオオオニハスの葉が浮かんでいたことは覚えていますか?秋の菊花展も毎年の恒例でした。

 読むほどに、在りし日の宝塚ファミリーランドへと誘われてゆきます。これから生まれてくる令和の人たちと、宝塚にこんな風景があったことについて、いつか語り合ってみたいですね。

 

 

 折しも現在逸翁美術館で行われている展示は、「阪急沿線むかし図絵 大正・昭和のゆめとまち」。池田文庫開館70周年を記念し、当館所蔵品が展示されています。宝塚ファミリーランドに関する展示もあります。

 改元にあたり、にわかに旧時代への愛着が増したという方は、たくさんいらっしゃると思います。そんな方々にも、ぜひご覧頂きたい展覧会です。

 そして、美術館をご観覧のあとは、どうぞ池田文庫へもお立ち寄りください。阪急沿線にまつわる図書・雑誌類を手にとって、眠っていた記憶との再会を楽しんでください。

 

(司書H)

池田文庫の本棚放浪記【第10回】~宝塚おとめ~

 暖かく過ごしやすい季節になってきました。一方で、春は入学や入社など、人によっては環境が大きく変わる変化のときでもあります。期待と不安で落ち着かない日々を過ごしておられる方も多いのではないでしょうか。

 もしかすると、タカラジェンヌたちにとっても同じことがいえるのかもしれません。毎年3月に宝塚音楽学校を卒業した新しい顔ぶれが加わり、宝塚歌劇団の中にも変化が生じる時期だからです。そして、新入組にとっては初舞台の、5月頃行われる宝塚大劇場公演に先駆けて発売されるのが、ファンにはお馴染み『宝塚おとめ』です。

 この本には、その年度に宝塚歌劇団に在籍する全生徒の写真とプロフィールがまとめられています。

 観劇がより充実したものになるよう事前に目を通すという人もいれば、観終わった後に心惹かれた出演者をチェックする人もいるでしょう。観劇の友として、長きにわたり愛されてきた生徒名鑑なのです。

 

 さて、そんな『宝塚おとめ』ですが、はじめて発行されたのはいつ頃なのでしょうか。

 

 こちらが、最も古い『宝塚おとめ』です。昭和12 (1937)年12月に刊行されました。はじめは『宝塚グラフ』(現在の『宝塚GRAPH』)の臨時増刊号でした。この時は写真と名前のみですが、写真のフレームやレイアウトに工夫が凝らしてあり、目を楽しませてくれます。

 その後、年1回ペースで刊行されていきますが、昭和15年1月の刊行をもって、一旦ストップします。この昭和15年は、戦争の影響で機関誌『歌劇』や『宝塚グラフ』も休刊を余儀なくされた年でした。次の『宝塚おとめ』の刊行が見送られたのも、やむをえない状況だったといえます。

 

 終戦後は、宝塚歌劇団も休止していた機能を徐々に回復させていきました。宝塚大劇場公演の再開に、機関誌の復刊、日本劇場における東京公演の再開・・・そんな復調ムードのなか、7年ぶりに刊行されたのが下の『宝塚おとめ』 (昭和22年5月刊)です。

 

 きっと手にした人々は、宝塚歌劇を存分に楽しむことができる時代の到来を実感したことと思います。この時から現在まで、途絶えることなく刊行を重ねています。

 

 池田文庫では、昔のものから新しいものまで、歴代の『宝塚おとめ』をまとめて通覧できます。かつての観劇の友は、今度は調査の友として活用されています。

 笑顔のタカラジェンヌたちが並ぶページの向こうにあるのは、宝塚歌劇団の年表上には現れてこない膨大な個人史の気配。

 人生のひとときを宝塚の舞台に賭した彼女たち一人一人のドラマを想像すると、宝塚歌劇の歴史がいっそう深遠なものに感じられてきます。

 

(司書H)